2008年02月03日

思想家としての岡本太郎

昨日、いせ志穂市会議員さんからお知らせメールを受けて、今日は、「盛岡ブランドフォーラム2008 NIRA政策フォーラム・イン・盛岡」に妻と共に行ってきました。赤坂憲雄氏(東北芸術工科大学大学院長)の『思想化としての岡本太郎 〜太郎が見た原日本 東北・岩手』というタイトルの講演がとても気になったからです。

赤坂先生は、『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)にて、第17回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞され、副賞でフランスに渡り、岡本太郎の足跡を辿ったということからお話が進められていきました。

岡本太郎(1911-1996)という芸術家は、1970年に開かれた大阪の万国博覧会のシンボル「太陽の塔」を作ったことで知られていると思います。他に、「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があったって良いじゃないか」などの名言でも話題になりました。

太郎は20代に約10年に渡りパリに学んでいます。そこで、バタイユ、アンドレ・ブルトン、ブラッサイ、ロバート・キャパ… 世界の文化史に名を残す偉大な人物の名前が次々に挙がってきます。彼は、そういった人間関係をパリのカフェで築いていったのだそうです。当時のパリのカフェは、文化の発信地ともいえる役割を果たしていたといいます。実際カフェの椅子に腰掛けてみて、誰が凄い偉人なんてわかるものではありません。そういった人物を見出す彼の嗅覚には驚くものがあると先生は話されていました。

1951年暮れに、太郎は上野の東京国立博物館で縄文土器と出会い、翌年、「四次元との対話−縄文土器論」 として発表。太郎が発見したのは、考古学者たちとは異なっていました。考古学者は、あくまで「物」でしかなかった土器や土偶を、太郎は「縄文人の心が、そのカケラにある」と捉えたのでした。それから、約10年に渡り、日本各地を歩き紀行を書いています。

縄文土器には、狩猟民族の動物と食うか食われるかの荒々しい美学がそこにあり、そこから生まれるものには、素晴らしい創造性に満ちている。それに対し、弥生土器のシンメトリーな形からは、農耕民族の形式美、繊細さは感じられるものの、守りに入っていて、芸術的魅力が感じられないのだそうです。

だから太郎は、法隆寺を見ても感動しなかったのだそうです。岩手の平泉(奥州藤原氏)の文化に触れても、京都の真似事であり魅力を感じられなかったとのこと。ところが、刀の鞘の形を見て立ち止まったのだそうです。蝦夷の力づよいデザインがそこにあったからです。

彼は、岩手県人が石川啄木、宮沢賢治を偉人にまつりあげて、そのことにもたれかかっているのを批判。啄木は、おんな子供をうっとりさせる程度のひ弱な文学と切り捨て、賢治に対してもかなり酷評だったようです。

つまり太郎は、縄文人のような、食うか食われるかといった明日の予想の付かない荒々しいものに、無限の可能性と美学を見出したようです。

太郎は、東日本と西日本は、区別して考えるべきという持論を展開していました。東日本を「馬」に象徴し、西日本を「牛」に象徴しました。

太郎が岩手に何度も足を運んだのは、東日本に創造的な土壌のようなものを感じられたからなのでしょう。縄文文化のみならず、しし踊りにみられる郷土芸能に注目していて、岩手・花巻の鹿子踊 ( ししおどり )には、空間的美学が感じられ、はみ出してダイナミックに迫ってくるのに対し、四国・伊予のものは、被り物は鹿の剥製を被りリアルなのにもかかわらず、形式的美学であり、繊細で静的なものなのだそうです。東の縄文文化に対し、西の弥生文化。空間的美学に対し、形式的美学とと、対照的なのだといいます。太郎は、芸術の視点から、東日本の文化に共鳴していたようです。

文化の多様性の発見。日本文化の中には、東アジア、オセアニアの文化が流れている。自らの中に異質なものを抱えていることを感じることの重要性を説いたのでした。

伝統というのは、創造の現場にならなくてはならない。伝統だから正しいと考えるのではなくて、そういう素材を通り越し(しっかり学んだ上で)、否定(破壊)してみる。でないと、我々自身の創造が生まれてこない。

ローカルなもの特殊なものこそが世界と繋がっている。

時代に背を向けては、時代を超えるものは生まれない。世界に突き抜けていくような文化も芸術も生まれない。

海外に行って外国かぶれするのではなく、むしろ日本という泥を被って、泥にまみれて生きるのだ。

汝の足元を深く掘れ、そこに泉がある。


しろねこは、岡本太郎という芸術家が大好きです。子供の頃、「太陽の塔」に魅せられ、粘土で作ったこともありました。しろねこは、クラシック音楽が大好きです。そこには深い芸術性が感じられるからです。でも、岡本太郎のような、生命力に溢れた作品も大好きです。芸術の楽しみ方、係わり方をまた一つ教えられたように思います。

ふと頭をよぎったのだけど、『接吻』で有名なオーストリアの画家グスタフ・クリムトが、当時の宮廷や教会の古典的な建築・美術を嫌って「ウィーン分離派」を結成したことと共通しているものを岡本太郎の芸術に感じられました。こういった芸術家たちは、それまで権力や富の象徴として用いられていた芸術作品をより精神性を引き出す人間的な芸術作品へと高めたのだと思います。


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posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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