2015年10月31日

必ずできる

当塾でお預かりしたお子さんには、全員に良くなることの素晴らしさを実感してもらおうと思っている。

書道の得意で、すぐに上達する子もいるけど、

書道が苦手で、なかなか上達しない子こそが、将来有望な子なのだと考えている。

また書道が得意だったはずなのにスランプに陥って悩んでいる子も、将来有望な子なのだと考えている。

苦手を克服することは、教わる側も教える側も大変なことだけど、苦手を得意に変えられたなら、これからどんな厳しい試練に会おうとも、「きっとできる」と考えることができるだろう。苦手克服は、一生役立つ素晴らしい財産と言えるのだ。

人生良いことばかりではない。これからの人生、どんな厳しい試練に出会うかわからない。

得意なことばかりやっていると、壁にぶつかった時、「自分には才能が無い」と諦めてしまいやすいのだ。

そういう意味で、当塾でのシュタイナー教育は、どちらかというと書道の苦手な子に大きな効果が出ている実感がある(もちろん、できる子には、厳しい壁〈試練〉を与えることで効果を上げようと考えている)。

空間認識能力に劣る子、加減の全くわからないような子には、シュタイナーの線描(ひたすら直線を引くワーク)が、その子の芸術性の扉を開くきっかけを作るようである。

当塾は、本格的なシュタイナー学校ではないので、徹底したシュタイナー教育は展開できない。とはいえ、子供の能力開花やスランプ脱出のためにシュタイナー教育を役立てることは可能なのである。だから、シュタイナー漬けになっている子もいれば、数か月に一度しかシュタイナー教育を受けるチャンスを得ていない子もいる状態である。

教えている側としては、それが特別なお稽古ではないとしても、いつもシュタイナー教育を念頭に入れて教えているのだ。特に、お稽古の後には、必ず「教育ノート」を付けているのだが、これを書きながら、シュタイナー教育の視点から分析して、次回のお稽古の方向性を決めているのである。

お預かりしたお子さん全員が、どんな厳しい試練に出会っても「必ずできる」と考えられる人間へと育てていきたいと思うのだ。




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2015年08月15日

佐藤文子の恵翠刻字展

お陰様で、母恵翠の個展は、展示期間の半分が過ぎました。

昨日は、夕時に母と展示していただいているCafe Jazz開運橋のジョニーさんに足を運ぶことができました。

芳名録には、多くの方の名前が寄せられており感動いたしました。

夏休みなので、うちで習っているお子さんがお母さんと一緒に足を運んでくださったり、素晴らしい芸術家のお名前も書いてありました。

お祝いにと素敵なギフトを置いていってくださった方もいて、感謝でいっぱいです。

作品をぜひ買いたいと言ってくださっている方がいるとのことを聞き、思いもしない高評価に母も喜んでいたようでした。

ただ、入院中の父の状態が良くないことで、なかなかジョニーさんの方に足を運ぶことができないでいることが残念でなりません。


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Cafe Jazz開運橋のジョニー店主の照井顕さんと母恵翠

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2015年07月22日

おばあちゃん先生の初の個展「佐藤文子の恵翠刻字展」

おばあちゃん先生が特別賞(高円宮杯)

今月16日、高円宮杯日本武道館書写書道大展覧会の審査結果が送られてきました。

賞の内容は上から、特別賞(日本武道館奨励賞以上)、日本武道館賞、大会奨励賞、特選、金賞、銀賞、銅賞となっていますが、当塾での今年の成績は、特別賞(1)、日本武道館賞(5)、大会奨励賞(1)、特選(4)、金賞(4)、銀賞(3)、銅賞(1)でした。特に日本武道館賞がこれまでの最高だった3名を2名上回る好結果でした。

高円宮杯の審査結果が送られてくるほぼ1週間前には、競書の段試験結果が発表されましたが、硬筆・毛筆合わせて19点のうち17点が合格でした。不合格の2点は、中学生の2名でしたが、二人とも2点のうち1点は合格したので「全員合格」となり、これもまた例年にない素晴らし結果でした。この二人は、心がスランプでお休みが続き、練習にあまり打ち込めなかったこともあり、片方だけでも合格できたことは幸運だった言うべきなのかもしれません。この日には、岩手県書写コンの課題が送られてきて、当塾では、どこよりも早く書写コンの練習に取り組んでいることになります。

さて、今年の高円宮杯では特別賞が1名出ましたが、その特別賞を受賞したのは、おばあちゃん先生でした。あくまで子供たちを優先させたので、おばあちゃん先生は出品することだけを目的としていたため、まさか特別賞を受賞するとは考えてもいませんでしした。昨年、4月に腰の骨を圧迫骨折して寝たきりになり、リハビリが進むにつれて、起きている時間を少しでも増やさせる作戦として、私が書道用の机から用具一式をプレゼントして、高円宮杯へ出品することを目指させたことが始まりでした。今回は、唐の三筆の褚遂良の臨書でしたが、さすが昔取った杵柄というか、私には表現できない世界を見事に描いていた作品だと感じてはおりました。

8月30日(日) 東京・九段 ホテルグランドパレス2階「ダイヤモンドルーム」にての授賞式には、私が付き添って出席する予定です。

そうなると、今年は、おばあちゃん先生の年といえるのかもしれません。来月8月1日(土)〜8月30日(日)の1か月間、Café Jazz開運橋のジョニーさんで、おばあちゃん先生の初の個展(「佐藤文子の恵翠刻字展」)を開催することになっているからです。

詳しくは、ジョニーのマスターの照井顕氏のご厚意により、7月14日(火曜日)の盛岡タイムスの毎週月曜日の照井氏の人気コラム「辛遊記」の記事に載せてもらいました(13日の月曜日が新聞休刊日だったので火曜日に掲載されました)。

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今回の高円宮杯で良かった点は、昨年、成績が芳しくなかった塾生が日本武道館賞を受賞したことです。以前にも、金賞だった子が翌年に文部科学大臣賞を受賞したケースもありました。今年、金賞、銀賞、銅賞だった子には、来年には、大きな賞を狙わせたいと思います。そうなると、どの子にも隔年か3年おきにチャンスが巡ってくるような形になるかもしれませんが、私は全員に主役になってもらうつもりで頑張らせたいのです。

県の書写コンは、各学校から出品するため、主役がもっと増えてきて全員主役も可能なのかもしれません。ただ、全国展のように塾から出すものとなると多くて5名。特選まで拡大しても10人程度が限界なのです。そこが辛いところですが、それだけに各学校から出せる書写コンは頑張らせたいと思うのです。

今年、このように成績が上がった原因は、私が新聞配達を辞めたことにあると言えると思います。やはり、教師が疲れていると、指導に陰りが出てしまうことがはっきりしたわけです。お弟子さんの数をしっかりキープしないと、また新聞配達のような仕事をしなくてはなりません。そこのところをご理解いただき、親御さんにも宣伝していただきたいと願う次第です。



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2015年04月02日

人生の冒険家宣言

新聞配達を辞めたら、何か自由の身になった気分。

かなり無理をしていたからもしれない。

とにかく、盛岡の冬は半端じゃなかった。

その悩みから解放されただけでも精神的にかなり楽になった。

獄中の強制労働ではないのだが、娑婆に出た気分である。

多分、書道を教えている人の中で、私が一番貧乏なのではないかと思う。

コンクールで子どもたちに良い賞を取らせているが、教える本人は自分の作品を出品するお金すら無いのだ。

多分、シュタイナー教育を研究している人の中で、私が一番貧乏ではないかと思う。

事実、シュタイナーの本は全て中古本である。

もちろん、ドイツに勉強に行くことなど全くの無理。

それでも、絶対に諦めない。

自分にはできないとは考えない。

基本的な生活のやりくりに困難を感じつつも、綱渡りのような経済状態であってもスリルを楽しんでさえいる。

超貧乏な筈だが、そんなに貧乏を感じていない。

なぜなら、心の中にすでに成功している自分が描けているからだ。

両親の同時介護に、幼少の頃のトラウマによる根の深い妻の自信喪失から立ち直らせるために、とことん付き合わなくてもいけなかった。

多分、それを無視して進んでいたなら、今頃成功者になっていたかもしれない。

しかし、そこで掴んだ成功よりも、遠回りして掴む成功の方が価値が大きいような気がする。

さて、お金が無いから何もできないという人がいる。

本当にそうだろうか?

お金が無くたって、勉強は出来るはず。

学歴がなくたって、今始めればいいだけの話。

10年で結果は出ないかもしれないけど、20年あればきっと何か結果が出せる筈。

20年もやれば、しっかりした目標を持っている分だけ、一流高校の生徒たちより頭が良くなっている筈。

どうしても克服できない苦手な分野は、得意な人を味方に付ければいいだけの話。

自分の志を支持してくれる仲間を増やせばいいだけの話。

だから、自分はこんなもんって小さくなっていることなんてない。

人生をそのような冒険と考えれば、きっと楽しくなってくる筈。

何がなんでも絶対に諦めてはいけない。

病気や怪我で何かが出来なくなったとしても、別に出来ることがきっとある。

その克服のために膨大な時間が掛かるとしても、チャレンジするだけの値打ちがあるのだ。

この冒険に失敗などありえない。

なぜなら、人生の冒険の終着点には、栄光の人生へのスタート地点が待っているのだから。

とにかく冒険家として、その生涯を終えることに意義があるのだ。

次の自分は、その冒険がもっと板についている筈。

その次の自分は、もっともっと素晴らしい冒険家になっているだろう。

時には、そのいくつもの冒険を振り返る魂の休息の時もあるだろう。

その魂の休息の時に、自分をしっかりと確かめることができるのだ。

そんな、とてつもなく大きなステージを私たちは生きているのである。

人は死んでも、本当は死んではいないのである。

そうであるなら、いっそのこと冒険家になった方が得ではないか。

気づいた今こそ、人は冒険家になれる。

そして、気づいた今から、たとえ残された時間がわずかだとしても、冒険家として死ぬことは十分可能なのである。






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2015年02月17日

「教育は平和活動」 シュタイナー教育の重要性について

例えば、イエス・キリストは、宗教の上では立派な神です。優れた信仰を持つ者によって、数々の奇跡を起こしているからです。

しかし、科学の上では立派な神には成り得ていません。人類は、まだまだ目に見えない世界の解明がわずかしか得られていないからです。

つまり、科学の上でのイエス・キリストでは、人々の心を支える力には成り得ないわけです。まだまだ信仰による奇跡に頼らなくては、絶望に繋がってしまいやすいことが、この世には多く存在しているからです。このことは、仏陀にも、他の名前の神様にもいえる現実です。

そう言う意味でも、信仰を持つことはとても重要なことではありますが、同時に私たちは科学の目を養い、人類が科学の面からも優れた神を見いだしていけることに積極的に参加していくことが重要なのだと思うのです。21世紀は、そういう世紀になっていくと私は見ています。

「自分は科学者ではないから関係ない」などとは考えてはいけません。あなたの小さな発見が、周りの人に影響を及ぼし、大きな発見に繋がる良い土壌作りに間違いなく役立っていくと考えられるからです。

信仰による奇跡と、科学による奇跡がイコールに近づいていくことにより、宗教を超えた〈真実の神〉が燦然と輝いていくことになるでしょう。そこで人類は、どの神が正しいかなどという議論をすることがなくなります。宗教を楯とした民族紛争も意味がなくなることでしょう。

シュタイナーの挑戦は、そこにあります。
※ ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner、1861.2.27 - 1925.3.30 オーストリア帝国、現在のクロアチア出身の神秘思想家で、アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。

彼が当時、この世に存在するあらゆる宗教を研究し、その上で科学的なエッセンスを多く取り得ているのは信仰と科学の融合を目的としているからです。彼の神秘的な思想は、ある種のファンタジーと言えるものなのかもしれません。その多くは時間の経過とともに古くなり、正しい知識に切り替えていかなくてはならないわけですが、彼のファンタ―ジーには自由があり、その自由がなくては真理を見いだすことは決してできないのです。

つまり、シュタイナーの教えにかぶれてしまい頭ごなしに正しいと考えるのではなく、シュタイナーのように自由な発想によって、その素晴らしい世界を人類に示していこうと考えるべきなのです。

いかにシュタイナーの教えだからと言って、自分にとって違和感を感じる考え方を、無理して取り入れなくてはならないということはありません。違和感を感じることについては、あくまで〈保留〉とし、自分にとって自然に受け入れられる考え方を優先して進めて行った方が、むしろ真理への発見に繋がっていくように思えるからです。自由には批判も含まれます。頭ごなしの批判はいけませんが、逆方向から考える発想があっても良いと思うのです。

大切なことは、間違っていることは訂正し、新しく見いだされたことは付け加えることができるかどうかということです。

宗教の教えは、神の教えと考えているゆえに絶対的であり、それゆえ間違いがあっても訂正できませんし、新しく見いだされたことがあっても付け加えることもできません。このような知識を「絶対的知識」といいます。

しかし、シュタイナーの教えは、間違っていることは訂正し、新しく見いだされたことは付け加えることができる「相対的知識」なので、真理を見出していくための無限の可能性を秘めています。

子どもたちには、中学に入るまでは、残念ながら、このことをストレートに伝えることはできません。親御さんには、塾の通信プリントの記事の中で、伝えることは可能かもしれませんが、あくまで興味を持っている方が対象となります。

子どもたちが中学に入る頃には、こういったことが理解できる学力と、センスを身に着けさせられるよう教育を進めています。そのために当塾では、子どもたちの行動を観察し、「7年周期(7年ごとの人間の発達の段階指針)」、「四つの気質(憂鬱質、粘液質、多血質、胆汁質)」と四層構造(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)による分析を基本とし、「オイリュトミー(運動を主体とする芸術的アプローチ)」や「フォルメン(有機的な動きの形状を把握するための芸術的アプローチ)」、「エポックノート(主に職業観の育成)」などを導入しているのです。

ではなぜ、上記で説明したような「相対的知識」が必要なのでしょう。

そこをしっかりお伝えしないと、不安になってしまう親御さんも出てきて当然でしょう。超越的内容が多いゆえ、カルトのようなものと受け止められてしまっては意味がありません。

それは、私たちが「いつも安心して生きていく」ためです。

不安は諸悪の元凶といえます。

神は、私たちのことを決して見捨てることはありません。どんなに間違ったことをしたとしても何度でも何度でも許してくださいます。神はこの世ではなく、あの世(霊界)の支配者なので、その御力を感じるためには、奇跡体験が重要となります。その奇跡体験を得るためには数々の試練を神の支えによって乗り越える必要があるのです。

逆に悪魔は、この世の支配者ゆえ物質的な目に見える力を持っています。この世の権力や富は悪魔が作り出したものでもあります。しかし悪魔は、決して間違いを許してはくれないので、しまいには人間を見捨ててしまうのです。調子のいい時は、たいへん頼れる存在ですが、調子を失い始めると大きな苦痛を与える恐ろしい存在に変貌するのです。

神とは「善」そのものであり、「安心」そのもののでもあります。

悪魔とは「悪」そのものであり、「不安」そのものでもあります。

そのようにきっちり二つに分けて考えると二元論的(善か悪か)になってしまいあまり良くないのですが、私は悪魔にもある意味役割があって、人はだれもが悪魔との関わりを避けては生きていけません。まず、お金が無くては生活していくことは不可能です。だからこそ「神の限りなき許し」が必要になると考えています。つまり、トータルに一元的に(何事もポジティブに)考えるべき問題だと思うのです。

ただ、神に生きている人は、どんな試練に出会っても、神と共にいるので「安心」しています。

そこが戦場であったとしても、神に生きている人は、「安心」して生きていけることでしょう。

人が信じられない人は、お金が無くなると、周りの人が誰も助けてくれないゆえ、「不安」に陥り、人をだますことを考えたり、盗みを考えたり、自暴自棄に陥って憎しみを誰かに向けるなど、犯罪に走りやすくなります。

何度裏切られようと人を恨まない人は、お金が無くなっても、普段、周りの人を愛しているゆえ、周りの人が助けてくれます。つまり、「何があっても、だいじょうぶ」なのです。

つまり、神様が何度でも何度でも許すお方ゆえ、私たちも何度でも何度でも許す者にならなくてはいけないわけです。それは、神が人間に求める願いと言えるのかもしれません。

神と共に生きる「安心」が得られると、人生にいなかる試練が待ち構えていたとしても、「何があっても、だいじょうぶ」で乗り切ることができるのです。

私は、このセンスを子どもたちに身に着けさせたいと考えているのです。こういう子どもたちが増えていくのなら、世界は必ず平和に向かっていくことでしょう。

私が「教育は平和活動(悩みながら、苦しみながら、悲しみながらも、ひたすらに愛に生き、ひたすらに許すこと)」というスローガンを掲げているのはそこにあるのです。




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2014年05月13日

世界からスラムと貧困を無くすること

シュタイナー教育というと、学ぶ側にとっては難しすぎると思われがちだし、教える側は大変な思いで取得した知識につい思いあがってしまいがちである。これでは、両者にとって好ましい関係とは言えない。

神秘学に基づく教育法なので、そのほとんどが、科学的に証明されておらず仮説にすぎない。しかし、宗教と大きく異なる点は、宗教は、神の教えゆえに「絶対的知識」であるのに対し、神秘学は、間違っていれば訂正できて、新しく発見された真理があれば付け加えることができることにある。つまり、数千年掛けて、仮説が真理へと進化していくのである。それなので、現在地を見失わずに、慎重に一歩一歩積み上げていくことが大切で、「わからないことは、わからない」という謙虚さをもって進めていくべきものなのである。しかし、現実には、シュタイナーの教えをまるで宗教のように絶対視している人を見ると狂っていると言わざるを得ないのである。

シュタイナー教室を最も簡単に定義づけるのなら、「〈魂の進化〉と〈魂の退化〉を区別できる精神を養う」ことにある。この区別ができるようになれば、魂の進化をより着実に進めることができるのである。つまり、シュタイナー教育は単に頭のいい子を育てるのではなく、魂の美しい、そして強い精神力のある子に育てることにあるのだ。

<魂の進化>に生きているフィリピン人青年について紹介したいと思う。



これは、5月6日、世界を変えるテレビ(日本テレビ系列)で、フィリピン・マニラを訪れた池上彰がエフレン・ペニャフロリダ氏を取材した番組を、私はたまたま見ることができた。そこで得た感動を、私は一生忘れられないことだろう。

フィリピンには貧困層が集まる地区、いわゆるスラムがあり、一面がゴミだらけで、バラックのような建物が所狭しに立っているという場所の映像が目に入ってきた。そこでゴミをあさっている子どもたちが大勢いた。この地域では、ゴミを売って生計を立てているのである。学校に行かない子供が多く、生きるためにギャングになる子も後を絶たないという。

エフレンは、スラムの悲惨な光景を目の当たりにし、この暮らしから抜け出さなければならないと思い勉強に励んでいた。
しかし、そのことがギャング予備軍の子どもたちの目の敵になっていった。殴る蹴るの暴力や執拗なイジメに耐え忍ぶ日々が続いたのである。

エフレンは、彼らに復讐をしたいと思い、そして一つの答えに辿り着いた。

ギャングのない世界を作ればいい。

エフレンは、友人に声を掛け、教科書やノートを貰い受けるために歩き回った、そしてかき集めた教科書やのーーとをボロボロの手押し車に詰め込んでスラムへ向かったのである。このスラムを貧困から救う慈善団体DTC(ダイナミックティーンカンパニー)を設立したのは、何と彼が16歳の時である。

授業を行う時間帯は、子どもたちが親の手伝いから解放される土曜日の昼間を狙った。そこで子供たちに声を掛けて勉強を教えることにしたのである。

しかし、手ごわいのは親御さんたちで、自分の子供には学問いらないと邪魔をしてきたのである。それでもめげずにエフレンは授業を続けたのである。

エフレンはとあるアイディアが浮かんだ。問題に正解するなど頑張った子にお菓子などをあげるようにしたのである。そのことが口コミでどんどん広がっていき、参加する子供が増え続け、多い時には30人もの子供たちが集まるようになったのである。

エフレンの教え子の中からは、学校の先生になった者も出てきた。彼の復讐劇は、見事に実りを得るようになっていったのだった。

現在も手押し車の授業は続けられていて、エフレンを支えるスタッフは100名、手押し車も70台まで増えた。

活動はフィリピン国内に留まらず、ケニア、インドネシアなど、近隣諸国の貧困地域へと広がっていった。

授業を始めて12年目の2009年、その活動が認められ、アメリカCNNテレビが選出する人道的な活動家に与えられるCNNヒーローズ賞を受賞した。

池上氏の「教育とは何ですか?」の質問に対し、エフレンは、

「誰にも盗まれない財産です」

と答えていたのは印象的であった。



私は、エフレン氏と、インド・カルカッタの貧困の現場で、路上で死にゆく人々を介護するために、「神の愛の宣教会」を設立したマザー・テレサ(1910 -1997)の人生とオーバーラップしていた。マザーも貧困のカルカッタから、全世界の貧困の地へと、その慈善活動を広げていったからである。マザーは、ある時は戦争を止めるという奇跡までやってのけた、マザーたちの祈りが一時停戦をもたらし、戦争で傷ついた子供たちを救ったのである。マザーには、神が味方をしていると思った。しかも、脚色された聖人伝ではなく、私はリアルタイムの映像で、そのことを知ったのである。

世界中からスラムや貧困がなくなったら…

「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」

これは宮沢賢治の言葉であるが、どんなに金持ちに生まれ恵まれた生涯を送ろうと、この世にスラムと貧困がある限り、次の人生はスラムに生まれ変わるかもしれないのである。

しかし、この世からスラムや貧困がなくなったなら、すべての人が、人生に良い学びと魂の進化がもたらされるようになるのである。これこそが、本当の幸福といえるのではないだろうか。



「〈魂の進化〉と〈魂の退化〉を区別できる精神を養う」ことの他に、もう一つ加えて子どもたちに伝えたいことは、

「人に仕えるというプロセスを経なければ、自分のやりたいことを実現できない」

ということである。これは、私の自戒でもある。もっと人に仕えるということをやっておけば、私はこんなにも遠回りの人生を歩むことがなかったと思えたからである。人に仕えることを経た方が、多くの賛同者が得られやすく、目標実現がより近づくのである。

こういったことも、いきなり小学校の低学年の子供に話して聞かせるわけにはいかない。子どもの魂の成長(7年周期)を大切にしながら、必要なタイミングで話ができるように、子供に魂の成長を踏まえた上で進めていくのもシュタイナー教育の方法なのである。


付記(2014.5.15)

私たちの魂の完成のためには、世界からスラムと貧困を無くさなければならない。と書いたが、スラムと貧困と同じくらいに、社会悪といえるものは、極端な「裕福」ではないかと思う。極端に裕福な人がいるということは、虐げられている人が必ず存在するからである。また極端に裕福な人で、真理探究の目を持たない人は、我欲が優先し、魂が退化する方向性を持ちやすい。真理探究に目を向けないと、人はこの世に何も学べないのである。


付記(2014.5.16)

昨日、妻と話しをしていて、私はエフレン氏の言葉から重要なことを聞き逃していたようである。スラムの80%の人が学校に行かない状態では、勉強する20%の人の立場は弱い。それが逆転して、80%の人が勉強するようになると、勉強しないでいる人の立場が弱くなっていくといったニュアンスのものだ。そうなると悪質な人たちは、そこから去っていくしかなくなり、良い環境へと近づいていく。つまり、悪質な人たちが住みにくい環境に作り替えていくことにあるのだ。
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2014年05月06日

人格教育の重要性について

子どもの教育で最も重要なことは、子どもとの信頼関係をいかに築くかにあると思う。

教師が上から目線で指導するのに、ついてこない子どもが多いからだ。

私は、子どもの目線で、その時その時の子供の状態を感じながら指導内容を決めるようにしている。一見して頑張れないと感じた子には、始めは添削を1点だけに絞るなどして、子どもに安心感を与え、少しずつモチベーションを上げていけるように工夫した指導を心掛けている。

教師は、手を抜かず真剣勝負で子どもたちに向かうべきである。これも、子どもたちと信頼関係を築く上で重要である。とても疲れることだが、良い結果が出てくるようになると、やりがいが出てくるものである。

私は過去に5年ほど、コンクリート2次製品の製造工場にて、精神薄弱者更生施設の男子青少年延べ16名の職場実習を担当した経験がある。

どの子も完全に自信を失っており、まずは自信を付けさせることからの指導となった。ある子には、汚水桝の材料となる短い針金を30度曲げる作業をしてもらった。しかも1000本曲げである。

初日は、合格品が数十本のみで、あとは不良品だった。私は、仕事が終わってから、その曲げた針金を元に戻して次の日に備えるようにした。翌日も、その翌日も、1000本曲げが続いた、次第にコツを掴んでいき、数本しか不良品が出なくなっていった。そこで大いに励まし、ついに1000本すべて合格品が出せるようになっていった。

こんな単純な作業でも達成感とは大きいものである、その子は自分から、溶接の仕事をしてみたいと言ってきた。そこで、丁寧に教えながらやらせてみた。見事にやり遂げ、さらには難しい溶接までこなせるようになっていった。そして、最終日までには、一般の作業員の中に混じって立派に流れ作業もこなせるまでになっていった。こんな感じで、16人に向かい合ったのである。

こんな感じで、16名全員を職場での採用へと導いていったのである。

ところが、その中の2名が、会社の金を盗んみ無免許で車で逃走するといった犯罪を犯してしまった。しかも、その2名は、教え子たちの中でも最も優秀な子たちだった。

書道塾においても、ごく最近まで、家庭の躾が全く出来ていない問題児たちに教えていた。その子たちは、塾の備品を次々と壊し、大いに暴れてくれた。躾の出来ている子に悪影響を与えないようにするため、時間調整にいつも悩まされた。しかし、その子たちとの信頼関係だけは築けたので、全員に初段まで取らせることができたのである。しかし、それが限界だった。

この子たちも、私が体調が優れずに苦しんでいた時に、休み時間のホテルごっこに誘ってくれて、肩たたきの無料券をくれるなど優しいところを見せてくれた。それゆえ、親御さんが教育に協力的になってくれたなら、この子たちに良い方向性を与えられたに違いないと思えてならないのである。

問題児の教育は、いつかはしてみたいと思っているが、それでは教える側の生活が成り立たないのである。こちらの教育は、行政的に何らかの助成をしてもらわないと、今後はできないと感じている。

自分で言うのは何だが、私は技能を教えることは得意なようで、受け持った子全員に、それなりの結果を出してきたと思う。しかし、問題は、スキル教育には成功できても、人格教育ができて来なかったことにいつも引っかかってきた。

私がシュタイナー教育に注目するようになったのは、そこにあるのだ。学校も塾も、スキル教育のみだけで、人格教育には積極的ではない。行われたとしても、対処法的なもので、その場しのぎに過ぎないのだ。どんなに良い学校、良い就職へと導けても、後に犯罪者になってしまっては意味がないのである。

シュタイナー教育は単に頭の良い子を育てることだけではないのである。

とことん考える授業(エポック授業)の他、フォルメン(絵画的アプローチ)やオイリュトミー(身体表現によるアプローチ)等を通して、「自然の法則」を体全体で捉えるセンスが習得できるのである。

これが、その子の人格を向上させるのみならず、〈人類の文化レベルを向上させる〉人材育成となるのである。


恵翠書院 盛岡教室

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2013年03月06日

死について

とても美しい女性。男性だけでなく、女性からも憧れた女性が、交通事故で突然亡くなったとします。

その女性は、傷ついた遺体となりました。

数日後、その女性の遺体は、火葬場で焼かれて灰になりました。

その灰は、墓地に埋葬されました。

その女性は、もうこの世にはいません。

その女性は、どこへ行ったのでしょう。


もし、別の次元へ行ったとするなら、美しかった身体も、別の次元に行ったのでしょうか。

もし、別の次元へ行ったとするなら、別の次元には、何々持っていけるのでしょうか。



5歳までは、普通に育っていた男の子が、麻酔医のミスにより、脳性麻痺となり、言語を失ってしまいました。

手術の直前までは、元気で、とても話好きだった子が、全く話ができなくなってしまいました。

その子が死に、別の次元に行くとするなら、その子は話のできない子のままでしょうか。

手術の失敗により壊れた脳とその身体は、別の次元に持っていくわけでないので、魂だけになった彼は、また話ができるようになると考えることができると思います。



そう考えたとき、どんなに美人であったとしても、イケメンであったとしても、この世で生きている短い間だけの「仮の姿」でしかないということになります。

もし、美人であることや、イケメンであることを鼻にかけ、意地悪で思いあがった醜い魂になったとするなら、その人が行く別の次元とは、いかなるところなのでしょうか。

逆に、美人でもイケメンでもない人が、他者の幸せのため、世の中の幸せのためにひたすら働いて死んだとして、その崇高な魂は、別の次元のいかなるところへ行くのでしょうか。


どんな人も必ず死にます。

死を考えるとき、私たちは、「今いかに生きるべきか」が問われていることに気づかされるように思うのです。


美しい心のの持ち主は、美しい心の持ち主にふさわしい次元に行くように思います。

醜い心の持ち主は、醜い心の持ち主にふさわしい次元に行くように思います。

あくまで「もしも〜」の仮定上の話にすぎませんが、このように考えてみると、美人な人や、お金持ちの人が、必ずしも羨ましいものではないということが、わかるのではないでしょうか。




世の中には、次の5つのパターンに生きている人を見出すことができます。

△「今だけを生きている人」
この人は、この中で最も悩みの少ない人なのかもしれませんが、進歩のない人生を歩むことでしょう。ただし、運に恵まれれば、よりよい人生になる可能性もないとはいえません。逆に運に恵まれなければ、つまらない人生となってしまうことでしょう。つまり、運次第の人生といえます。糸の切れた凧、舵の失った船に例えることができると思います。あまり深く考えない、悲壮感のない性質が救いとなっています。

×「過去を基準に、現在を受け入れない人」
この人は、心が過去に向かっているため、「今だけを生きている人」以上に、進歩のない人生を歩むことでしょう。それが良い過去なら、不平不満の多い人生。それが悪い過去なら、恨みの多い人生となることでしょう。いずれにしても暗い人生を歩むしかありません。くよくよ考えやすく、精神的病になりやすいタイプといえます。自慢できるような過去を歩んだ人、実績のある過去を歩んだ人が、報われない現実に苦しむようになると、自殺に走りやすいようです。

×「未来を基準に、現在を受け入れない人」
この生き方は、夢ばかり追い求めても、夢を叶えるための具体的努力をしないので、決して夢をかなえることはできません。資産家の家に生まれるなどして、お金に困らない人なら、ある意味幸せな人生を送られるのかもしれませんが、お金に恵まれていない人の場合は、酷い貧乏を味わうこととなるので、共に生きる人が苦しむこととなるでしょう。周りの人に恨まれる人生になりやすい性質があります。どんなに貧乏になっても改めない頑固さがあるものの能天気さが救いになっている人と、ついに行き詰って「今だけを生きている人」になってしまう人とに分かれてくるようです。これといった実績がないため、自殺に走ることはないようです。
 ※心が過去に向かおうと、未来に向かおうと、現在を受け入れないと良い方向には進めないということです。

○「過去を基準に、現在を受け入れて生きている人」
心は過去に向かっていますが、現在を受け入れているため、自分の心を修正するポイントを掴むことができます。しかし、過去の経験をプラスに変化させることができたとしても、それ以上の自分になれないため現状と魂の成長のいずれも、限界を味わうことになることでしょう。とても惜しい生き方なのです。

◎「未来を基準に、現在を受け入れて生きている人」
心が未来に向かっていますが、現在を受け入れているため、具体的に夢に向かって歩むことができます。現状が向上していくだけでなく、魂も向上することでしょう。もっとも実りある人生といえます。もし、過去にも目を向けることができるのなら、自分の心の修正もできるので、さらに豊かな人生を歩むことができることでしょう。無限の可能性をもった生き方です。


「死」を前提に、いかに生きるべきか考えてみましょう。


上記は、あくまで問題提起の文章にすぎませんが、みなさんにじっくり考えて欲しいと思います。












posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月27日

子どもの人格教育は、「放課後教育」にある

教師と子どもとの間に信頼関係が築かれ、子どもが教師と共にいる時間に、心地よさを感じられるようになったとする。
すると、その子どもは、無意識で、教師の行動を真似するようになるのである。

例えば、入門時には、わがままな感情をコントロールできず、お友達に意地悪をする傾向の子だった子が、教師といる時間に心地よさを感じられるようになると、その子は、無意識で教師の行動を真似して、感情をコントロールできるようになり、お友達を励ます傾向を示すようになっていくのである。

もし、教師が、その子を激しく叱り、強引に行動を改めさせようとするなら、その子は、教師になつかなくなるため、プラスの行動変容は望めないといえる。仮に、なつくようになったとしても、教師の厳しい言動は、その子が無意識で模倣する言動となるため、他者に厳しいことを言う子になるのである。

そう考えると、教師は、まずは、ひたすら子どもとの信頼関係を築くことが重要となってくる。子どもの行動を変えるという発想ではなく、教師が、ひたすら手本となる行動を示し続けることが教育なのである。このことからも、体罰はもっての外であり、どんなに問題行動を起こす子がいたとしても、辛く当たってはいけないのである。

しかし、そのやり方では、できない子がその現状を克服しにくいため、勉強ができないまま成長するのではないかと指摘されるかもしれない。しかし、間違いなく無意識で教師の行動形態を模倣するため、教師が良い手本を示しているなら、彼らが社会に出たときに、周りから愛され、援助されやすい性質を示すと考えられ、勉強のできない部分を見事に克服できるのである。このことは、小学校における大人数での教育では手が届きにくい部分といえる。

できない子をできる子に変えようと、子どもに無理な重荷を与えないことが重要である。現在の、その子の状況を見極め、ふさわしい努力目標を見つけてあげることが教師の使命の一つといえるのである。

つまり、学習成果にばかり目を向けていると、子どもの人格教育が疎かになってしまうのである。当塾では、才能のある子には、より高い目標を与えて努力させているが、(7歳頃までに固まり、型となっている)人格修正の方に主眼を置いている子に対しては、教師と子どもとの信頼関係を重視した教育を展開している。

子どもには、学ぶ環境の他に、遊ぶ環境を用意する必要がある。子どもは、遊ぶスペースとちょっとした小道具を与えると、自分たちのイメージを膨らませて、「ごっこ遊び」を始めるようになる。これが、人間関係を養うために非常に有効なものとなるのである。遊びの中で、自然に、できる子は先生や社長の役を演じているようであるが、できない子は、妬んだり僻んだりするのでなく、そういった形で、できる子を認め励ますことができるのである。また、できる子も、できない子と一緒に遊ぶことで、差別的な感情に走ることなく、できない子の良い面を見つけて励ますなどの健全な精神が育まれていくのである。この部分も、小学校の教育現場では展開しにくい、まさに「放課後教育」なのである。

ある日、私が疲れた状態で授業をしていた。それまで「アクセサリー屋さんごっこ」をやっていた子供たちが、「温泉ごっこ」に変更してやっていた。私は、子供から「無料サービス券」をもらい、癒しの施設に案内された。うかつに子供に苦しい姿を見せられないと反省することとなったが、同時に、子供たちが健全に育っていると感じることができた。

学校でいじめを受けている子も、当塾で、他のクラスの子や、他の学校の子との間に良い人間関係を築くことで、自信を失わずに済むため、登校拒否を食い止める効果となっている。

さて、私が母から書道塾を受け継ぎ営業活動をするようになって、それまでの子どもたちに比べ、放課後にだらだら遊んでいる子供が目立つことに気づくようになった。これは、親御さんの問題、つまりはリストラや労働者派遣法など、労働形態が激変し、収入減で苦しむご家庭が多くなっていることを示しているようである。国の未来を支える子供たちの学力の低下が目立ち、わが国はますますその地位を失っている。家計に負担のかからない「放課後教育」の重要性が問われてきているのではないだろうか。






posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:21| Comment(3) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月08日

書道塾の役割を考える

書道教師として心掛けていることは、お稽古の時間、一人一人のお子さんに120パーセントのエネルギーで接するということである。一切、手を抜かない。ここが大事だと思うのだ。

子ども3人から、一度に声をかけられたら、かけられた順番に、「はい、○○ちゃん」と、その子の声の色で声を返してやる。そして、「○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃんの順番に添削するから待っててね」と言った具合で指示を出す。ここを面倒ぐさがると、子どもたちは付いてこない。薄ら返事は禁物なのだ。

ご家庭での躾のできていない子への対応としては、「やだ、もう書きたくない」と言ってから、何枚書かせるかが教師の腕である。「仕事のできる大人になりたかったら、ここからが勝負だよ。でないと、嫌な仕事は投げ出す大人になっちゃうよ。嫌なときに頑張れる人が偉いんだ。」などと子どもを説得し、書かせる。字が上手い下手なんて関係なし。取り組む姿勢を大げさな位に評価する。「○○ちゃん、あなたは書きたくないと言ってから、10枚も書いたじゃない。これは凄いことだよ。偉いことなんだ。」と褒めちぎる。こういう子に限って、家庭でも、学校でも叱られてばかりで、褒められた体験が少ないのである。褒められることに快感を感じるようになると、静かにお習字に取り組めるようになっていくのだ。

ご家庭での躾のできていない子に、「級が上がるから頑張れ」は通用しない。「いいもん、級なんて上がらなくて」とか、本心とは違う言葉が返ってくる。彼らには、賞状の価値もわからない。せっかく取った賞状も、「どうせ賞状なんて捨ててしまうから、取る意味なんて無いもん」と返事が帰って来る。躾のできているご家庭なら、賞状をとったことを祝ってくれて、かつ額に入れて飾ってくれるところなのだが、この子らの親は、何もしてくれないのだ。そこで、賞状をコピーし、塾に貼っている。塾で大いに祝うようにしている。「大丈夫、あなたの賞状は、ちゃんと塾に飾ってあるから、いつまでも飾ってあげるからね」と答える。

塾の教育は、そういったご家庭や学校で手の届かない手当てをすることにあると考えている。もちろん、ご家庭での躾のできているお子さんには、「級が上がるから頑張れ」「賞が取れるように頑張れ」が通用するので、そういった激励を飛ばしている。

ご家庭での躾のできていない子は、油断すると大騒ぎして他のお子さんの指導も妨害しかねない。ある子は、他の子に酷い意地悪をすることがある。そういう時は、一旦、お稽古を中断し、子どもたちととことん話し合うようにしている。すると、意地悪した原因が浮き彫りになっていく。朝にお父さんお母さんに意味無く怒られ、学校でも先生に悪いことをしたと疑われて怒られた。だからむしゃくしゃして誰かに当たりたくなった。はじめに言っていた意地悪の理由とは全く違った理由を話し始める。そういうときは、涙を流し、声をしゃくらせて話すのだ。「私は、どうせ悪い子だから」と話すので、「悪い子ではないよ。偉い子だよ。だって、悔しい気持を正直に先生に話したじゃない。悪いことに気がつける人って一番偉いんだよ。悪いことをしても、悪いことに気付かない人が多いんだからね。」そうすると、この子は、いじめた子に「ごめんなさい」と謝まるのである。そうしたら、さらに褒めちぎってあげるのだ。これは、いじめられた子にも良い学習になるのである。子ども同士のトラブルこそ、生きた道徳教育のタイミングと考えて、そのタイミングを逃さないことも教育だと考えている。

ご家庭での躾のできている子には、書道のいろいろな作品を見せて、鑑賞法を伝授する。子どもが感動した感じが掴めたら、書きたいように書かせてみる。そういった芸術性の扉を開く教育も展開している。一人一人、指導テーマが異なるので、全力で当たらないとうまくいかない。子どもたちは、全力で当たると、良い形で答えてくれるのだ。

この姿勢は、私の歌の師匠である、奥田良三先生と高橋洋子先生から学んだことである。両先生は、レッスン時間、全力で私に指導してくださった。まったく手を抜かないレッスンである。威張ることもなく、私を見下げることもない。逃げ出したくなるほど、集中した時間なのだが、愛情がビシビシ伝わってくるので逃げ出せない。そこでのレッスンが私の心の財産となっているのである。いつも、両先生のイメージを手本に指導を心掛けている。


今日は、とあるカトリック信者さんの葬儀ミサで歌う予定である。歌を歌うとき、その時間に全力を尽くす。そこには一点の雑念も存在しない。とても清い時間なのである。私が、少なからずも声楽の演奏で評価を得てきたのは、そこにあるように思う。全力で取り組むことが、感動を生むのである。歌の技術だけではないような気がする。心が抜けていると、どんなに良い声でも伝わらないのである。今日は、亡くなった信者さんの素晴らしき人生を素晴らしき楽曲の中に凝縮するつもりで歌わせていただきたいと思っている。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 04:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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