2016年03月28日

苦悩

苦悩することは、大変辛いが悪いことでもない。良いものを見つける過程でもあるからだ。

YouTubeでのいくつかのビデオクリップを見たことで苦悩している。つまり、自分の現在のカトリック信仰が間違っているのではないかという迷いが生じたことによる。

しかし、そのショッキングなビデオクリップを徹底検証したところ、相手側にも嘘があることに気が付いた。それが完全なるプロテスタント信仰に基づいてものゆえ、そういう意図で作られたものだと確信を得た。そのビデオクリップによると私の信仰の基盤ともなった証さえも否定されてしまうからである。

もちろん、そのビデオクリップの証自体は正しいもので、間違いなく素晴らしい体験に基づいているのだと思う。問題は、ビデオクリップを制作する過程で、多くの人の手が加わり、プロテスタント思想が盛り込まれてしまったことにあると考えられるのだ。その人の体験は、もっと単純で純粋なものであった筈だったと思う。つまり、そのまま伝えて欲しかったのだ。

3年近く研究して来たシュタイナー教育の研究なのだが、ついに挫折してしまった。

私は現在カウンセリングの研究もしているが、良いカウンセラーは、カウンセラーとしての心の引き出しに、多くの手法を持っている。そして、相談者の一人一人異なる性格に応じた手法を選んで対応するのだ。

例えば、カール・ロジャースの受容のテクニックが優れているからと言って、そのテクニックは決して万能ではない。大部分の相談者には有効なものであっても、まったく上手くいかない相談者があって当然なのである。それゆえ、カウンセラーは、多くの技法を学び、伝統的なものばかりではなく最新のものにも目を向けなくてはならないと思うのだ。

シュタイナー教育は、シュタイナー教育信奉者から完全教育と受け止められていて、一から十までシュタイナーの教えに従うのである。私は、教育者としての心の引き出しの一つとしてとらえていたかったのだが、心の引き出しのすべてを明け渡渡さなくてはならない空気に耐えられなくなったのである。つまり、シュタイナー後の新しい教育理論も導入できなければ、教育の進化は有り得ない。世界のスタンダードな教育を創り出すには、一つの教育思想にとらわれ過ぎてはいけないと感じたのである。シュタイナー教育が世界のスタンダードな教育になり得ない理由は、そういう点にあるのではないだろうか。

不認可はわかるが、教育にあまりにお金が掛かりすぎるのも問題だと思う。後日書きたいと思うが、「貧乏の問題と教育」は重要なのである。

また、私の信仰心もネックとなった。シュタイナーが教えるキリストのイメージと、私がスタンダードなキリスト教を通して培ってきたキリストのイメージがあまりに異なっているからだ。いかにシュタイナーがずば抜けた天才であったとしても、鵜呑みにしていいのだろうか。自分の心を置いてきぼりにして、現実の中で決して確かめられないような知識で塗り固めていっていいのだろうか。

もちろん、そういうぶっ飛んだ思想を私は否定しないし、むしろ学びたいとさえ思う。優れたインスピレーションは、苦悩の中から生まれるからだ。大切なことは、腑に落ちないことは保留し、他の知識を学ぶことで解決できるかもしれないと考えることにある。無理して信じ込もうとしたり、決めつけてしまうのは真理を学ぶ姿勢とは思えない。


私の東京での学生時代、とある大衆食堂で、たいへん不愛想なウエイトレスさんが仕事をしていた。彼女の働きぶりを見てふと思ったことは、「きっと彼女は、他の店では勤まらないことだろう。この店の店主は何と優しい人なのだろう」と思ったことである。

そして、こういう人が働けるような社会こそが、優れた社会ではないだろうかと思ったのである。

こういう人の命を軽視してはいけない。見下げてはいけない。

こういう人たちを受け入れられる社会でなくては、世界は平和にならないと思う。しかし、利益を追求する考え方では、こういう人たちは除外されるしかない。

テロの悲劇が世界に広がっているが、貧困と差別が起こしているのではないだろうか。

本当に正しい宗教や正しい思想が人々を救うのだろうか?

お金持ちになるために猛烈な努力をしても、誰かを不幸にすることで成り立つ成功にどれほどの意味があるのだろうか?

いかなる人をも受け入れる人々の優しさこそが最も大切なのではないのだろうか。

私は、子供たちに字の上手な子になって欲しいと教えているが、助け合うことの大切さを理解できる子供に育って欲しいと願い指導している。

私は現在苦悩の中にあって、何も結論は出ていない。

優れたものを学ぼうとして飛び込んだ先には、いつも失望が待っている。しかし、そういった失望を重ねながら真理に近づいている感じを得ているのも事実である。真理が、私の数々のコンプレックスを取り除いているのだけは確かだからだ(コンプレックスを基盤としている社会に騙されてきたことにようやく気が付いてきている)。

私は、自分の心にだけは嘘をつきたくない。自分に嘘をついてまで信じることはできない。

依然わからないことだらけの状態だが、諦めないで進むのなら、きっともっと優れた世界に出会えるような気がする。生きていて、どこまで真理を見つけられるのか…

苦悩の中ゆえ、誰とも話をしたくない状態にある。とはいえ、素晴らしい時間が流れている実感はある。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月04日

今に集中する

歴史に学ぶことは別として、後悔と恨みがうずまいている過去に心を向けるのではなく、また仕事上のプロジェクトを進めることは別として、過度な期待と不安がうずまいている未来に心を向けるのでもなく、今に集中することが、あらゆる困難を乗り越えていけるベストな生き方なのではないかと思うのです。

神様(仏様)は、過去にも存在していないし、未来にも存在していない。今にだけ存在し、今の中に永遠が存在すると思うのです。今に集中するなら、次々に課題をこなしていけるので、多くのことが出来るようになります。逆に、同時に複数のことに手を付けるやり方だと、意外と何もこなせず、返って非能率だったりします。一つのことに集中すると、何か不思議な力に繋がるのかもしれません。

さて、銀行口座の引き落としの父名義から私名義に変更する手続きと、まだお礼をしていない方への件以外は全て終了しました。昨日は、過労のために苦しくなってきたため、かかりつけの病院で点滴をしてきました。

父が亡くなってから、腰が痛いと駄々をこね全く何もしない母のことで苦しんできたわけですが、その母の車いすを引いていると、何故か強力な助け手に出会うので不思議でした。きっと、「お気の毒に、何かお力になりましょう」と思うのでしょう。いろいろと知恵を授けてくれました。そうして母の借金の件も、母の遺族年金の件も、父の死亡保険金の件も次々に解決していきました。一気に不安が無くなりました。

今日は、朝7時からやっている高松2丁目にある「おはようクリニック」に母を連れて行き、痛む腰を診てもらいました。詳しい検査結果は来週となりますが、おおよその原因と対処法が見えてきました。お医者さんも看護師さんも素敵な方で、とても優しく対応してくれたので、母はよほど安心感が得られたようで、帰宅の車内では楽しそうに話をしていました。

昨日のお稽古では、子供たちに「今に集中する」についての話をしました。その後、子供たちは素晴らしい頑張りで答えてくれて、これは小さな子供にも届きやすい話だと感じられました。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月23日

父の死

本日、20時13分、内丸病院302号室にて、父・佐藤 勇が亡くなりました。

私はJOYFITで運動中でしたが、携帯電話をポケットに入れてやっていたので、すぐに対応できました。汗も拭かずに急いで着替え、車で自宅に戻り、腰を痛めて動けない状態の母を励ましながら車に乗せ、介護の仕事を切り上げて駆けつけてくれた妻と3人で病院に向かいました。

ぎりぎりで父の死に間に合うことが出来ました。

明日のお稽古の子供たちににその旨を電話し、1時間後に葬儀屋さんの車が来てくれて、葬儀場に遺体を運んでもらいました。新聞各紙の慶弔欄に無料で乗せてもらえるとのことなのでお願いし、通夜(26日)、火葬(27日)の日時を決めました。葬式はお寺さんの都合を聞いてからです。また、係りの方からお寺さんへのお布施の額についてのお話もありました。

ということなので、来週の滝沢教室のお稽古はお休みといたします。

30日(土)、31日(日)の盛岡教室のお稽古につきましては、後日お知らせいたします。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月22日

意識を失った父

朝食時に病院から電話が掛かってきて、母と一緒に病院に駆け付けた。妻は夜勤明けから帰ってきていなかった。

少し待たされて婦長さんから説明があった。昨夜、父が急に意識を失い呼吸困難に陥ったので、酸素マスクを着用するようになる。CT撮影をしてみたが原因が見つからなかった。主治医の説明もあるとのことだったが、外来が終わった12時半にまた来てくださいとのことだった。

母が、腰が痛いということで、妻は夜勤明けで眠いということで、私一人で医者と面談することとなった。30分ほど待たされたが、隣のベッドの奥様と話をすることが出来、父は昨日の午前中までは人と話をすることが出来るほど元気だったことを知る。

13時頃、医師と面談をすることができた。どうやら広範囲の脳梗塞の疑いがあり、片側だけではなく全身にマヒが及んでいて、そのため呼吸も困難になっているのではないかとのことだった。障害が起きた直後のCT撮影には障害の状況が映りにくいが、数日経つとはっきり映り込む場合があるので再度CT撮影を行うという。もし、最悪の場合は、人工呼吸器を用いますか。用いないで自然死を選びますかという質問も出た。また、携帯電話は、常に携帯するようにして欲しいとのことだった。

今日は仕事が休みだったので、来月、父の転院先の病院への書類群をこなそうと思っていたが、そういう状況ではなくなってきた。父の死は思ったより早くやってくるかもしれない。


待ち時間を使って、子供たちへの教育内容の見直しを考えていた。長いことやってきた国語読解力のドリル、友人と一緒に展開してきているシュタイナー教育、クリシュナムルティ教育等… 私は自分の不安を基に新しい教育システムを導入しようとしていた。しかし、浅はかなことと知る。クリシュナムルティは、自己防衛的恐怖を教え込むことは、子供たちを不幸へと導くことになると書いている。

そうなると、明るく、楽しく、元気の良いファンタジーとイマジネーションに溢れた授業を展開するしかない。まず、私の中からネガティブな思いを消し去ることから始めなくてはならない。そうでなければ、そういった授業は展開できないからだ。

子供たちが、日常の中で感じさせられている「できない」という気持ちを忘れ去ってしまうほどに、明るく、楽しく、元気の良く、まるで夢の中にいるような「いい気分」で、「幸せ」な状態にさせてあげられるか。ネガティブな言葉は一切使わない。それだけ考えてやっていこうということで方針が固まった。


ほとんど動かなくなった父の横で、そんなことを考えていたが、方針が固まったと同時に主治医の先生が私を呼びに病室に入って来たのである。





posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月26日

最悪のシナリオの中にも「絶望」は存在しない

子どもたちを見ていて、何かしらの才能を持っていることを感じられる。書道の才能を持っている子。リーダーになる才能を持っている子。絵の才能を持っている子。作文の才能を持っている子。スポーツの才能を持っている子。ピアノの才能を持っている子…

私は書道を教えているが、そういった子供たちの才能を見出し応援している。こういった才能は無意識の内に働き、無意識で「できる」を体験しているのである。

シュタイナー教育的には、「できない」を「できる」に変えることこそが教育の醍醐味なのである。「できない」を「できる」に変えることは学ぶ者にとっても教える者にとっても苦痛の伴う大変な作業となるが、達成できた時、この子は、これからいかなる困難に出会ったとしても、「できない」ではなく「できる」で考えることができるようになるからだ。そして、教える教師もマンネリに陥ることなく、教師としてのスキルをぐんぐん上げることができるのだから大いに意義があるのだ。

インターネットで調べていて、輪廻転生を否定している人が結構多いことに気付いた。特に聖書を信仰の基本に置いている人は、その傾向が強い。信仰心という後ろ盾があると、科学的に実証されていないことでもはっきりと断定するようである。私はクリスチャンだが、シュタイナー教育を研究しているので、キリストや本来の釈迦の教えにある解脱としての天国と、その真逆の地獄、そしてどちらでもない輪廻転生を複合的に捉えている。科学的にはっきり証明できない分野ゆえ、幅広く考えた方がより多くの人と共感できるチャンネルが得られると考えているのである。

私が支持している仮説では、死ねば、無意識になるということである。これは前世の記憶があるとかといったものとは異なってくる。無意識なので、直接意識に働くものではない。しかし、無意識で「得意」または「苦手」を勝手に志向してしまうのである。前世でピアノをマスターした人は、無意識でピアノに対して自信を持っている。前世で哲学をとことんやったものは、哲学を学ぶことについつい喜びを感じてしまう。その程度のことな筈だが、この無意識方向性が、不思議と才能に大きく関わっていると考えているのだ。

しかし、無意識で「できる」ことが得意になったからといって大したことはないのである。得意なことだけやっていった方が成功への近道と言う人もいるが、人生、いつも調子がいいことばかりではない。ある意味、前世の自分を超えなくては、現世を生きている意味がないのかもしれないのだ。

東京賢治シュタイナー学校の創立者である故・鳥山敏子先生は、劇の発表会では、前回主役だった人には、今回は脇役。前回脇役だった人には、今回は主役をやられるという形で配役を決めていったのである。もちろん、脇役だった子が主役をやると言うことは、「苦手」と取り組まなくてはならない訳なので、始めは泣きじゃくって抵抗していた。それでも先生は許さず、何度も何度も「できる」までやらせるのである。そうして、その子は自分の「苦手」を見事に克服していったのである。逆に主役だった子は、脇役をやるのはつまらないことである。しかし、生半可な気持ちで脇役はさせない。主役を立てるために、どうあるべきかを徹底的に考えさせるのである。これは、いつもと違う自分を演じなくてはならない。ここにも、自分の壁を打ち破らなければならない試練があるのだ。そういう授業風景を記録DVD映像によって学ぶことができた。

確かに、輪廻転生の批判は理解できる。前世が見られるという人の話を聞いて、残念ながら、私はそのほとんどが嘘と見抜けてしまった。カバラ数か何かであらかじめ、せいぜい十数種程度にパターン化されたものでヤマを掛ける。しかもそれは、相談者が受け入れやすいパターンとなっているのである。それに、相談者との会話の中でふくらんだイメージから連想されたものを加えたものに過ぎないのである。こういったものは、相談者にも見えるようにしなければ、相談者は、カウンセラーの言葉をただ鵜呑みにするしかないのでアンフェアというしかない。真実と異なるものなので、相談者が良くなる筈がなく、そこには大切な「気づき」も「悟り」も無いゆえ、むしろ悪くなって当然なのである。つまり、信じる価値などどこにもないのである。

1000年前の世界の人口と、現在の世界の人口とを考えると、輪廻転生の数が合わなくなってくる。悪魔崇拝をしたため、地獄に落ちて、輪廻転生すらできない者も多くいることも考慮しなくてはならない。そうなると、「あなたの前世はありません」という人が多く出て来る計算となるのである。そうなると、他の惑星からの輪廻転生者がいないと数が合わなくなってくる。私は、地球はいつかは人が住めなくなるわけで、もし人類が絶滅したとするなら、地球とは異なる他の惑星が無いと、人類は輪廻転生できなくなってしまうと考えている。

そこまで、広げて考えないと輪廻転生とは何かが見えてこない。シュタイナーの教えはファンタジーとも捉えられるものではあるが、「もしも○○だったら」という考え方が、物理的な多くの発見を見出したのである。なので、馬鹿にできない。もし、私の説が間違っていたとしても、「間違っていた」とはっきりした時には、真理が見出されていることになる。

一番愚かなことは、真理が見出されていないのに、正しいとか間違っているとか断定してしまうことである。

輪廻転生は間違っていると断言した人たちの文章を読んで、良いところをついていながらも残念ながら、まだ真理には至っていないと感じるしかなかった。共感できる部分も多くあったが、それでもすっきりしないのである。

多分、私の論も、反対意見の人たちからすると、すっきりしないものだろう。しかし、私の論は、教育的なものとして考えたものであり、世の中を良くしようという発想からきているものである。そして、自分の論は、まだ完成したものではなく、未来の人に完成へ辿り着いて欲しいと言う願いも込めている。

だから、私は断定はしない。

ここ数週間、いろいろ世界の裏側について調べまくり得た情報のために私はかなり失望してしまった(特にバチカンの犯罪について)。失望の中、怪我や病気にも苦しんだ。しかし、私のように広いスタンスで黙想をしていくと、最悪のシナリオの中にも「絶望」は存在しないことに気が付くものである。そして、批判することでもなく、戦うことでもなく、未来の担い手である子供たちを健全に育てることにひたすら情熱を注ごうと思うことで迷いは消え去った。

それは、神も私たちが健全に育っていくことを最も期待してくださっており。キリストの教える天国(解脱)は、私たちが他者の勧めではなく、自分の意志により、神の世界へと到達し、神の世界に調和することに全力を尽くせる者となることである。

そこには、この世での学びも知恵も必要はない。この世は、不完全な次元ゆえに、学びや進化が存在するので、神の世界には、学びも進化も存在しないからだ。進化というと聞こえは良いが、新しい時代の流れに合わせないと生きていけない現実を意味しているのであって、神の世界では全く不要の価値観なのである。

だから、いつの時代においても、常に天国はウエルカムなのである。

いかに正義の名のもとにおいても、殺人、拉致、略奪を喜ぶ神など存在しない。
神は、利他の愛に基づく平和しか望んでおられないのだ。不完全な人間の価値観などそこには存在しない。

また、正しい知識を得ないと天国へ行けないと言うのは間違いである。それゆえ、正しい宗教など存在しないのである。前に書いたが、天国に不完全なこの世の知識など不要だからである。その人の意志の力で、神への信仰を築かないと天国へ行けないのである。

ただ、そうなってくると、その人の意志が最も重要になってくる。その人が、他者の勧めではなく、自分の意志で「良くなりたい」と思えるかどうかに掛かってくるのである。

真実の教育とは、常に「良くなりたい」と願うことのできる人間を育てることにあると私は考えている。

つまり、輪廻転生を信じようが信じまいが、大切なことは、(悪魔ではなく)神への信仰を築くことにある。私は、科学で実証されていないどちらの価値観に対しても否定せずに語り合える者でありたい。相手の信仰心を大切にしたいゆえ、自分の考え方を押し付けるつもりは到底無いのである。

そして、(悪魔ではなく)神を信ずる限りにおいて、最悪のシナリオの中にも「絶望」は存在しないと言えるのである。

だから、いつも安心して、いつも喜びを持って生きていこう。




恵翠書院 盛岡教室

恵翠書院 滝沢教室

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月14日

Windows 10へのアップグレードの罠にはまらない方法 + ブログを頑張れない理由

パソコンは膨大な時間を奪う悩みの一つになり得るものである。私のHPのノートパソコンはWindows 8から8.1にアップグレードしたものである。

8.1にしただけでも、いくつかの私にとっては使用頻度の高いソフトが不具合を起こして苦労した。そのことが原因で、バックアップソフトでバックアップしていたPCシステムを復元する作業や、失ったデータの再入力作業等に膨大な時間を奪われた。今、そんなことに付き合っている暇はない… そのバックアップソフトの最新版は、何とWindows 8.1に対応しておらず、ソフト代を返金される事態も体験した。

最近パソコンを立ち上げると、Windows 10にさせようと罠を仕掛けてくるようになった。

うざったらしいので完全無視をしたいところだが、最低限のセキュリティ対策として、Windows Updateの重要な更新(Windows Defenderの更新も含む)だけはしなくてはならない。

最近のWindows Updateでは、Windows 10にアップグレードさせようと罠をかけてくる。うっかりその罠にはまらないためには、Windows Updateで表示された「重要」事項を確認するだけではなく、「オプション」タブを開いて、【ここが重要】「Windows 10 Homeにアップグレード」のチェックを外してから行う必要がある。さもないと勝手にインストールされてしまうのである(もちろん、すぐになら「停止」は可能ではある)。

良く考えてみよう。Windows 8で購入したパソコンは、Windows 8で動かすのがベストな筈である。バージョンを上げるとどうしても無理が出てくるからだ。決してお得ではない。今回はサポート期間の関係で、仕方なくWindows 8.1にしたのだが、そこまでだと感じている。どうしてもWindows 10にしたいなら、新たに購入した方が悩まずに済む。膨大な時間を失うくらいなら新規購入を選びたい。

と言うことで、ここさえ間違わなければ、Windows 10にアップグレードされることなく、安全にWindows Updateを実行できる。私は、うっかりミスをしないために、Windows Updateは時間にゆとりのある時だけにして、普段のWindows Defenderの更新は、Windows Defenderのソフト上の更新から行うようにしている。

また、Windows Updateをする前と後には、必ず、システムの復元の復元ポイントを作成するようにしている。デスクトップに表示されているPCアイコンを右クリックしてシステムのプロパティを開き、「システムの保護」をクリック。「システムの保護が有効になっているドライブの復元ポイントを今すぐ作成します。」の文字の右の「作成」をクリックして作業を進める。

何度、この復元ポイントに救われたことか。最も時間を掛けずにパソコンの不具合を直す方法である。




ブログを頑張れない理由


両親の介護をしていると。仕事をするのが精いっぱいで、他のことは何もできない。

仕事以外で頑張っていることというと、朝の瞑想で、私の守護霊(霊界のマスター)から学びを受けることと、フィットネスクラブで汗を流すこと位だろうか。

体を鍛えないと、この厳しい時期を乗り切れないと思ったからである。

つまり、ブログの記事を書く時間がほとんど無い状態なのである。

しかも、ブログの記事は、せいぜい10分程度で書いているため結構誤字が多く、後で手直ししている有様だ。

そんな記事ゆえ、ヒットするわけがない。それでも書いている理由は、私の本番の人生は両親の介護を終えてからと考えているので、それまでは練習期間と考えている。

全く書かないでいると、本番がきても、何も書けなくなってしまうような気がするからだ。

とはいえ、私の人生において、現在が一番良い学びが得られている時だと思う。

あまりに先取りしすぎてというより、理解できる読者が限られてしまうことから公開できない内容も多く含まれる。

今後は、そういったことは後に公開できる日が来ることを信じ、教育記事に専念しようと思う。


恵翠書道教室 シュタイナー塾



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月07日

最近、疑問に思うこと

日本人の2人に1人が癌になるというのは異常ではないだろうか。

このままでは、日本人の全員が癌になるかもしれない。

また、認知症になる老人の数があまりに多くはないだろうか。

このままでは、日本人の全員が認知症に侵されて死ぬことになるかもしれない。

私が、20代の頃は、こんなではなかったと記憶している。そこまで癌に侵されてはいなかった筈である。

認知症についても、それほど騒がれてはいなかった筈である。

つまり、ここ20〜30年ほどで事態が大きく変わってしまったのである。

若い芸能人が次々に癌になっているニュースに、日本の現状を痛感している。

何が変わったのか、私はその一つにコンビニ依存が強くなったことが大きな変化だと感じている。

コンビニ食品は、見た目がきれいな食品だが、食品添加物が実に多い。

中国製の食品も気になるところだ。他の国の輸入食品も大丈夫だろうか。

スーパーの野菜があまりにきれいすぎる。自然の形ではないような気がする。

自然の失われた食品を摂取することで、生命力(エーテル体)が失われていく。

パソコンやスマートフォンから発せられる電磁波も気になる。

生命力が失われるということは、癌になりやすいということである。

そうなると、夜更かしとか無理をすることは、もはや美徳にはならなくなってくる。

以前は大丈夫であったことも、現在の人にはリスクが大きいといえるからである。

現代人は、自然を取り戻すことをしなくてはいけない。

周に数回、公園に行って木々と触れ合うとか、山の方に足を運んで小川の水に触れ合うとか、湧き水を飲むとか、そんなゆとりが必要なのかもしれない。

ペットに触れ合うことも良いのかもしれない。彼らの波動は自然そのものだからだ。家庭で花を育てるのでも良いのかもしれない。

今のままでは、日本人のすべてが癌になり、仮に長生きしたとしても全員が認知症で死ぬ日という日もそう遠くないのかもしれない。

見えない魔の手が、もうすでに自分の身にも降りかかっていることを、私たちは認識しなくてはならないのである。

私が小3の時、学研の科学の小学生雑誌を見て、何でも原子力に依存する未来に疑問を抱いた。きっと未来は、原子力の公害で大変なことになると予測した。高校生の時、使い捨てライターに疑問を抱き、ビン類がお店でリサイクルされなくなったことに疑問を抱いた。きっと未来は、ゴミの処理と資源の不足で大変なことになると予測した。

人生経験に不足した子供にも予測できたことを、何で大人は予測できなかったのか。多分、予測はできていた筈なのだが、どうしてその予測を無視してしまったのか。

どうやら「コスト主義」にあったように思えるのだ。原発も高出力で低コストだから採用されたと思うのだが、廃棄物の処理問題や廃炉のことを無視して開発が進んでいったのである。

一部の人たちのお金儲けと人類の幸福は、相反するものなのかもしれない。

とはいえ、

二手三手先を読むならば、こういった時代の意味が見えてくる。ただ私の抱いているイメージをここで紹介することはできない。とはいえ、このイメージがあるからこそ、子供たちの教育に熱中できているのかもしれない。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月26日

カオスを生きる

現在の世界の状況はまさにカオス(混沌)と言えるのかもしれない(自然災害までも猛威を振るっている)。

正義と悪が戦っているというより、多くの正義が存在し、正義が正義と戦っている感じがするのだ。

カオスを生き抜いていくには、その正義という名のカードを多く持たなくてはならない。つまりは多くの価値観を学ばなくてはならない。そういう時代なのだ。

もはや一枚だけの正義のカードだけで生きられる時代ではない。もはや世界は、そんな平和な時代ではなくなっているのだ。

そして、二手、三手先を読んで、その場にふさわしいカードを切っていかなくてはならない。

もちろん嫌なカードも切らなくてはならない。一時的に妥協しなくては、そこで終わってしまう。意味のない戦いは避けたいものだ。義を重んじるばかり死んでしまっては意味がない。

というのは、カオスの時代は激しく動くからだ。強い者が強いままではいられないのだ。だから、妥協は負けではない。次のチャンスを待つための時間稼ぎなのだ。

とはいえ、きっと最後に切るカードは、一番素晴らしいカードになるのだと思う。

時が流れ、数々の苦しみを乗り越えながら、すべての人が、その素晴らしいカードに願いを込めるようになっていくのである。そこが重要だと思う。

シュタイナー教育では、自力で解決できる力を身に付けさせていく。何事にも諦めない精神を身に着けさせていくのだ。

そうして築き上げられ、高められた応用力が、学び身に付いた知識と共に、冷静に先を読める力へと繋がっていくことだろう。

この子供たちが、立派にこのカオスを立派に生き抜き、カオスの時代を終わらせてくれることだろう。そして、平和な世界を築いてくれることだろう。

だから、この時代を憂いてはいけない。憂いている暇などない筈なのだ。自分中心のちっぽけなことに一喜一憂してなんていられない。学ぶべきことを学び、良く黙想し、天の声を聞きながら、冷静に判断をしながら生き抜いていかなくてはならない。世界に目を向けてみよう。日本のような平和な状態にあるだろうか。「もはや遊んでなんかいられない」という意味がきっと理解できることだろう。

私は、そんな賢くて強い子供を育てていきたい。もちろん、子供たちに上記のようなことなど直接教える機会は無いかもしれないが、私たちが基盤づくりの教えをしっかりできるのなら、子供たちは、自分の力で、自分の意志で学び、理解し、多くの課題を乗り越えてくれることだろう。

幕末に明治維新を実現するための優れた人材を多く輩出した吉田松陰の松下村塾ではないが、これは私塾だからこそできる方向性なのだと思う。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月21日

優れた人ほど語らない

最近の私のブログの記事では、かなりぶっ飛んだ内容が続いてしまった。

それでも自分的には、かなり抑えて書いているつもりではある。心のままに書いてしまうと、ぶっ飛び過ぎて大変なことになってしまうからだ。

さて、そこで大きな気づきを得ることができた。

良い教育とは、自然と触れ合うゆとりを持った授業を心掛け、子供が自力でいろいろな解決策を見つけ出すお手伝いをする。一人一人の子供の子供目線でのコミュニケーションを大切にし、時には、その子とじっくり、とことん付き合い、ぶっ倒れるほどやり抜いた後に新しい力が得られることを体験させるといった「限界越え」も体験させる。これこそがシュタイナー教育の神髄なのである。

多分、天界のマスター(守護霊ともいえるのかもしれない)は、そのように私と付き合ってくれている筈である。それゆえ、私は多くのインスピレーションを得て問題を解決できているし、きっと解決できるといった自信というか安心感すら得ているのである。

天界のマスターたちが、私にしてくれていることを、教育現場で子供たちにすれば良いのである。

つまり、安易に答えを教えることはせずに、その子のレベルでコミュニケーションをして、その子が自力で問題解決できるように導いていく。そうすることで、本当の力が身についていくのである。

そういう子は、きっと、自力で多くの壁を乗り越えて、いつかは教える教師をも超えていくに違いない。私が、教え子に学ぶということになったら素晴らしい。というのは、自分が乗り越えただけでは、まだ半分であり、それでは自己愛のレベルだからだ。他者を乗り越えさせることができてこそ、他者愛が加わり、より完成されていくのである。

ここまで話したことは、カウンセリングにも応用できることだと思う。

解決策を教えてしまうのではなく、その人が自力で問題解決できるように、その人目線でのコミュニケーションを取ることで、「気づき」へと導いていくのである。

だから、私は、どんなに答えを持っていても、答えを話すことがあってはならないのだ。その答えは、私が「気づき」よって得られたもので、あくまで私だけのもので良いのである。

人は、自分越えをするには、大変な努力が要る。さらにそれを継続して行うには、それなりの決意が必要となる。短期間にそれをなすことなど困難である。まずは、自分サイズから始めなくてならない。他人サイズでは、挫折してしまうからだ。

自分サイズから少しずつ、時間をかけてゆっくりと、そして着実に自分越えに取り組んでいくのである。

「優れた人ほど語らない」という意味が少しわかってきたような気がする。語ってしまっては教育にならないからである。



〈補足〉
例えば、ショパンの演奏法をピアノの入門者に教えようとしても伝えることはできないことと似ている。ショパンを弾けるだけの腕前を持つだけの修業をした者にしか伝えられないのである。

私は、現在のイマジネーションを得るために素地に30年。専門的な学びを約3年やっているが、そうして得たことを果たして、素地も何もできていない人に伝えられるかと言うと伝えられないように思うのである。

昨日は、紫波町のビューガーデンにて、「鳥山敏子先生を偲んで 賢治の学校との交流会」に参加した。とても有意義な学びをしたので、後日、そのことを記事に書いて紹介したいと思う。

交流会から帰ってくると、玄関前に生ごみが置いてあり、カラスに荒らされていた。母の話だと、明日が可燃ごみの日なのだが、先週もそうだったが前日にごみを出す人がいて、家がゴミ当番なので置かれたとのことだが、家の中に置かないといけないのに玄関に置いたままにしていたので酷いことになっていた。それを必死で掃除し、一段落したと思ったら、父が悶絶しているので、車に乗せて岩手医科大学工事救急センターに連れて行った。

私がいないことをいいことに、食べたいだけ食べ物を食べたようである。その結果、また胃に穴が開き、集中治療室に逆戻りとなった。家族が全面協力し、普通に食事ができるようにまで回復したのにである。裏切られたような気分だった。しかも、先週には、入院していた病院で脱走を繰り返し、強制退院させられるなど育ちの悪い生き方が完全に蘇っている感じだった。子供の頃は不良グループの番長で、喧嘩が強いことがこの人の誇りだったようだが、私は幼少からこの人のDVに随分苦しめられてきたので、教育の重要性を感じるようになったのだと思う。

救急患者が多かったため、入院できるようになるまで深夜の11時を回っていた。家に帰ったときには午前0時を回っていた。母も介護者で歩行困難。妻は仕事のことで手一杯。私が倒れたら、この家族はどうなるのだろうか。

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2015年09月16日

至福に至る瞑想法

9月11日(金) 盛岡駅から北海道・千歳駅までの旅程の電車の中で、少々神懸かりな文章を書いてしまいました。東日本では各地で大災害をも引き起こしている激しい雨の中、自然からパワーをもらっていたような気もします。あまりにぶっとんでいる内容なので、無理して理解しようとしないでください。書いた本人も消化不良状態ですので… この場合、あくまで「わからないことは、わからない」と捉えることが重要で、科学的に実証できるテーマではないことを前提に読んで欲しいと願います。とはいえ、ご意見をいただけるとうれしく思います。


あなたは守護霊と話をしたことがあるか。と問うと、多くの人が、話したことなど無いと答えることだろう。

とはいえ、ごく普通の善良な人間ならば、運良く危険を回避したといいう経験をいくつか持っている筈である。その時、何かに守られたと感じたに違いない。

守護霊は、地上の世界の悪が全く見えないといわれている。

美肌をそして美脚を露出して歩いている女性(やがて若さを失い朽ち果てる美)は、地上では人々の目を奪って得意げなのかもしれないが、守護霊からは全く見えない存在なのである。

それゆえ守護霊は、善良な人間しか守られないのである。

性愛(性欲と見栄による愛情の伴わない愛)に狂ってしまい神を忘れてしまっているような人は、守護霊からは見えなくなっているため、事故に遭ったり、不運なことが起こりやすくなっているのである。

思い当たることのある人は幸いである。このことに気づけた人は、神を見失うことが無くなっていくので、必ず神の奇跡を体験できるようになれるからだ。

そういう経験を持つ者であっても、守護霊と話をしたことがあるかと問うと、やはり多くの場合無いと答えるのではないだろうか。

守護霊とは、死後、いわゆる天国と呼ばれている高次元な霊界での学びを終えたマスターたちなのである。

私たちが守護霊と対話をするためには、守護霊たちが働いている天上の聖なる場所との波動と自分の魂の波動を合わせることでアクセスが可能となる。

そのためには、魂の状態を極限まで清める必要がある。彼らは、善に関する内容にしか応じてくれないからである。

話を先に進める前に、人が死んだらどうなるかについて少し触れておく。

善良な人間が死ぬと、その魂は、いわゆる天国といわれる高次元の世界への入り口に導かれる。そこで、次の決意を促される。「一度、天国に参入したなら、地上でのこと一切を口にしてはいけない」と。

もし、口にしてしまうなら、その人は転生への学びに戻されることになる。といっても、善良な人間ゆえ、失敗を取り戻すための良い学びの機会を与えられることだろう。

また、もし天国にたいへん醜い女性がいて、それをけなしたとするなら、その人は天国にはいられなくなる。また、ものすごく美しい女性がいたとして、目を奪われて狂った感情を表出させてしまったなら、その人は天国にはいられなくなる。

多くの場合、天国において、地上では学べないような素晴らしい学びに感動し、地上での古い学びは次第に心を向けなくなっていくのである。

そうして、天国における学びを終えると、守護霊として働けるようになるのだ。

天国と呼ばれている高次元の世界のさらに上の世界に参入するためには、地上世界が役割を終えなくてはならないので、その時まで守護霊としての働きは続くことになる。

太陽もいつかは役割を終える日が来るわけだし、その前に地球も役割を終えることだろう。そして、この3次元宇宙にも必ず終わりがあるのである。

もし地球がダメになったとしても、広い宇宙には地球人にかなり近い高度な知能を持つ生命体が存在するので、そちらに転生できるという説もあるが、できることなら、釈迦やキリストがその教えの中で勧めている天国の参入者となる解脱の道を歩むべきなのだと思うのだ。

さて、話を守護霊との対話に戻そうと思う。

天の聖なる場所とアクセスするための家庭内に聖なる場所を持つ必要があるのだが、私の場合は寝室のベッドにしている。

その理由は、完全にリラックスできて、かつ脱魂状態になっても問題のない姿勢となると寝ている状態以外考えにくいからだ。机に座っていては、そういった状態を作ることは難しいのである。

私の場合は、音の良いオーディオシステムで、バロック音楽を掛けてから寝床に横になる。そして、おなかが上下する位に深い深呼吸をして、頭に降り注ぐ心地よい音のシャワーを浴び続ける。美しい音のシャワーに魂が清められているイメージを持つようにする。

完全にリラックスした状態になったところで、聖なる母音の詠唱をする。声帯から声を出しているという感覚ではなく、金属でできている楽器の音が鳴り響くといった感覚になるように発声を試みる。

そうしているうちに語り掛けると答えてくれる感覚が得られてくる。心の中での対話でもよいし、無意識で声を出して語り合うのでもよい。

こういった語り合いは清らかな語り合いではあるが、決して堅苦しい感じではない。むしろ最高に至福の時を得ている実感が持てることだろう。

その人の魂の方向性として、天上の美が地上の美に完全に打ち勝った状態になった時、その人は地上の誘惑に負けない者となる。

守護霊は、私たちに天国の世界については絶対に教えてはくれない。あくまで、私の話すことに対し、ヒントを与えてくれるのみなのである。それゆえ、私たちは自力で良い方向性への気づきが得られるのである。こうしていかに多くの知恵を獲得するかが解脱への道に必要なことなのである。

この世を魂を汚さずに生き抜くためには、知恵が必要である。一つや二つの知恵では無理である。十や二十でも到底無理。百や二百でもぜんぜん足りない。千や二千でもまだまだ。それ以上の知恵を獲得しなくては悪魔(サタン)との戦いに勝ち抜くことは難しいことだろう。

ここで知恵と書いたが、これは学問的な知恵ではない。守護霊から授かる霊的な知恵なのである。だから無学なものでも十分に得ることが可能なのだ。自分の生きてきたものの考え方に応じてくれるので、最も分かりやすいのである。

つまり、その人が望むのなら、すべての人に天国への道は開かれているのである。

しかし、実に多くの人はそのことに気づかずに物質的な世の中の価値観に振り回されながら転生を繰り返してしまうのである。

釈迦は転生より解脱を勧め、キリストはあえて転生には触れずに真っ直ぐに天国へ行く道を説いたのである。

どうせ天国で語ることはない訳なのだから、それまでどう生きたかということなどどうでもよいことなのである。

どんなに悪に生きようと、悔い改めるのなら、生きている限りやり直せるのである。そして、いかに良くなるための生き方をする決意を固めるかが重要なのだ。

転生する人は、一定の期間、準備のための霊界にいて、その人のカルマに応じた新たな人生を歩むために生まれ変わるのである。前世の記憶は消されているが、その人の天性の能力や癖を見れば、大体のことは浮き上がってくるものではある。

どうしてこのような無意識の傾向があるかというと、私たちの生きざまの全てがアカシックレコードに記録されているからなのである。

つまり、前世の記憶は意識上からは消されていても、無意識の中ではしっかり機能しているのである。

ということは、悪癖を直すことなく死ぬとするのなら、来世も、その悪癖で苦しむことになるのである。

守護霊との語らいの時を持つことは、この悪癖を直す最も強力な力となるのである。しかも、その先には解脱の道が開かれるのである。

もちろんここまで語ってきたことは、科学的に立証できることではない。それゆえ、「信じる」しかない。それゆえ問題なのだ。このたぐいのものは、「わからない」で処理して良いのだと思う。

ただ、科学的に説明できなくとも、実感として「信じる」を越えてしまった時、その人に力を与え、人生に多くの奇跡をもたらしてくれるのである。

だから無理に信じることはないし、「わからない」で処理して慎重に考えるべき問題なのである。

やってみてどうかということが重要であり、しっくりこないならば、それも現在のその人への導きと考えてよいのだと思うのである。もしかすると、もう少し人生を進めてからでないと実感できない問題なのかもしれないので焦ることはないのである。現在がふさわしい時なのかどうかは、簡単に判断できないことなのである。

シュタイナー教育では、子どもたちに想像的な要素を育むことを重要視している。なぜなら、想像的要素が発達させられるのなら、いかなるスランプ時においても、モチベーションを失わない方法を編み出すことができるからである。

ある人は、シュタイナー哲学を偉大なるファンタジーと言っているが、この想像力を私は心より尊敬しているのである。そして、私も、シュタイナーに習って想像の世界を育てているのである。

物理的発見も、発明も、想像力の産物である。相対性理論で有名なアインシュタインは、「もしも、光の早さで飛ぶ宇宙船があったら」というように考えて、理論の中で宇宙船を飛ばすことで物理的な発見をもたらしたのである。こういった想像力が、偉大なる先人たちが見つけられなかった真理を見いだしていくのである。

私たちは、アインシュタインのような偉大な物理学者でなくても、想像力を育てることであらゆる困難を克服できるのである。

そして、天の聖なる場所とアクセスできるのなら、「必ずなんとかなる」という自信へと繋っていき、心に平安がもたらされるのである。

心に平安がもたらされるということは、妬み僻み、不平不満というネガティブな感情に心が支配されることが無くなることを意味する。

これが天国にふさわしい者の思考回路といえるのである。

肉体的美しさがなかろうと、お金がなかろうと、学歴や、誇れる名誉を持っていなくても、人は、至福の時を得、神の奇跡に生き、真の(永遠の)美を得て、真の(永遠の)勝利者になれると… 私はそう信じている。

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2015年09月08日

貧しい者たちこそ、この世の主役(汝の敵を愛せよ)

お金が無ければ何もできないと考えがちである。

音楽をやっていても、結局、お金持ちに圧倒的な差を見せつけられるだけで、全く勝ち目がないようにさえ思えてしまう。

美術をやっていても、結局、高価な道具を手に入れることができなければ、全く相手にならないようにさえ思えてしまう。

多分、多くの人は、そのことで失望し、芸術活動を断念してしまうのではないだろうか。

ところが、私の場合は「最小限」の方が、力が発揮できるように思えるのである。大きく不足している方が、それだけ神が力を貸してくださっているという実感が得られるのである。結果的にお金持ちの芸術に負けない感動を鑑賞者と共有できる幸福に浸れることが多い。このような素晴らしい奇跡が体験できるゆえ、芸術はやめられないのである。

とはいえ、「最低限」の練習は必要だし、このことは毎日の習慣にしなくてはならない。また、音楽を鑑賞する、つまりは良い音楽を頭脳にインプットする作業も怠ることはできない。私は、貧乏なので、CDを購入するお金が無い。しかし、かろうじてインターネットができるので、YouTube等で最高の音楽をしかも無料で鑑賞できている。

私の芸術の特徴は、「最小限」で「最低限」である(私には芸術よりも大切な価値観が存在しているからである)。そして何より重要なことは、本番には、「最大限の本気」で取り組むことにある。一切の妥協をせず、命がけで集中する。不思議なもので、声楽の本番当日、風邪を引いてコンディションが悪く、リハーサルでまったくかすりもしなかった高音も、本番では奇跡的に出てしまうのは、自分以外の力がそこに加わっているという証になるのかもしれない。

私の文章も、声楽や書道と似ているところがある。声楽同様、かろうじてインターネットだけはできるゆえ、ネットでの情報に関して他者が驚くほど得ているのかもしれない。Amazonで中古本を購入しているのも人並み以上かもしれない。しかし、高額なセミナーに参加するとか、偉い先生に習うとなると全くの不可能であり、そうなると単なる独学の域を出ないかというとそうでもないようである。

私は守護霊(守護の天使)と語り合う能力があるため、高額なセミナーに参加するとか、偉い先生に習っているといった人たちと対等に語り合い、むしろ彼らを驚かせレベルの高い理論を語ることができているようである。これも、「最小限」で「最低限」な人間ゆえにできる業であると思えるのである。

神が存在する限りにおいて、貧乏な人間が損をするということは決してない。貧乏な人間が損をするのは、その人に神が存在していないからなのである。

この世は、サタン(悪魔)の支配する世の中といわれている。それゆえに、永遠の世界ではなく死が存在するのである。とはいえ、このサタンの世を生き抜かなければ、神の支配する高次元の世の中へ参入できる者とはなれない。

サタンの世を生き抜くには、膨大な知恵を必要とする(学問的な知恵とは異なる)。私たちは膨大な知恵を生み出していかなければ、この厳しい世を生き抜いていくことはできないのだ。一つや二つの知恵では足りない。十や二十の知恵でもまだまだ足りない。百や二百でもまだまだ。千や二千でも全く太刀打ちできない。何万、何十万という知恵を身に着ける覚悟が無くては全く通用しないのである。でないと悪魔の世界に完全に飲み込まれてしまい、サタンに魂を奪われてしまい、神の世に参入できない者となってしまうのである。生まれっ放しでただ生きて、世の中に振り回されるだけで死ぬことに何の意味があるのだろうか。

私たちがしなくてはならないことは、「小さき者として生きること」。小さき者でないと、神と共に歩めないし、神の奇跡を体験できないからだ。そして、「公共の奉仕に生きること」。公共の奉仕に生きるとは、社会のために働くことである。この二つさえ守られていれば、あとは「守護霊(守護の天使)様の指示にすなおに従う」ことで、いつも安心して生きることができる。まあ、他人様からは、おまえはあれも持っていない、これも持っていないとやじられ、からかわれることはあるかもしれないが、持っていないということは、それだけ神の愛が多く得られるという意味では悪くない筈である。笑う者には笑わせておけばよいのである。神の平安とは、そういう形でもたらされるものなのではないだろうか。

この地球は貧しい人の方が圧倒的に多いのである。ということは、神の側に生きられる人。つまりは天国に近い人の方が多い筈なのである。しかし現実はそのようには見えない。前に話した神の知恵といっても、知性はそれほど必要ない。つまりは「守護霊様と語り合うセンス」を身に着けられるなら何の心配もないのである。そのことを多くの人に伝えることができるのなら、このサタンの世が一気に平和に満たされてしまうという奇跡に包まれることだろう。

目に見える世界では、エリートと呼ばれる裕福な人間たちが地球を支配して、貧しい者を奴隷化し、削除(人口削減)していくという風潮があるようである。しかし見えない世界においては全くの逆である。その奴隷化され排除される側の人たちに天国の門が開かれているからである。

神の奇跡は、金持ちたちには得られない。貧しい者たちこそ、この世の主役なのである。

といって決して裕福な者を批判しているのではない。私も幼少の頃は、そちらの側の人間だったかもしれない。ただ運良く大怪我による身体障害と戦わなければならなかったので、物質的な欲望に支配されずに済んだ。現在は、完全に貧しい者の側となっている。まだまだ人生という道の途上にある者ゆえ、さまざまな時を経なくてはならないのだろう。もしかすれば、未来は裕福になるかもしれない。

お金も使い方次第では人を救う者になり得るのである。裕福であることは、そういう意味で素晴らしい祝福なのだ。とにかく、小さき者としてのスタンスで、貧しい者に目を向け、貧しい者のために奉仕する生き方をするべきなのだ。「守護霊様と語り合うセンス」を持ち合わせるのなら、裕福な者にももちろん天国の門は開かれているのは言うまでもない。ただ、そういう人間があまりにも少ないのである。

「汝の敵を愛せよ」というイエス・キリストの言葉があるが、サタンの側の人の膨大な富が、人々の幸せに使われるという奇跡が起こったなら素晴らしい。紛争や戦争で解決するのではなく、愛で解決していくのである。

人口問題は大変深刻であるが、むしろ知識人たちが子供を控え、貧しい国の人の子供を育てるようにしたら、一気に地球全体が良い教育で満たされるのではないだろうか。地球全体が良い教育で満たされたなら、人口問題は一気に解決へと向かうことだろう。世界が一つになり、戦争の無い素晴らしい時代がやってくるのではないかと思うのだが、どうだろうか。聖書の預言とは、成就させることが目的ではなく、人類を警告し、人々を目覚めさせることを重要視するべきではないのだろうか。預言の最終章は、私たちが導き出す神から与えられた課題なのである。

それゆえ、一切の敵視をやめ、すべてを愛に変えるべきなのである。

と、この文章を書いた理由は、とあるジャズのセミプロたちの祭典を見に行った際、出演者から、彼らの多くが医者かもしくは大金持ちであることを聞かされ大きなショックを受けたことによる。彼らと自分には接点が無く、私が入っていけるような世界では無かったのだ。そう思ったら、悲しくなってしまったのだ。

しかし、この文章を書いた後には、彼らを敵視することはなくなった。そして、私は貧しい者として音楽活動を行っていることに誇りが持てるようになった。

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2015年06月24日

幼子信仰

先週、パソコンが2度死んだ。1度目は、あまりのショックに気が狂いそうになって奇声を上げたりもした。2度目は、さらに深刻なトラブルだったが、聖母マリア様の保護を強く感じられたので、割と冷静に対処した。Windows 8.1に対応しておらず、前回、Windowsが立ち上がらなかった筈のバックアップソフトのブータブルディスクを用いてPCシステムを取り戻した。

目に見えない世界の研究をしている筈なのに、いざとなると幼子信仰に戻ってしまう。正しい歴史認識のつもりでキリスト不在説まで唱えていながら、この有様とは情けない。

20代は、この幼子信仰で、次々と奇跡を体験した。東京で自炊生活をしていた故、親と隔離された環境が得られたことが良かったのか、毎日が冒険のようだった。29歳の時に盛岡に帰ってきてからは、親(特に母親)の目が届くことで行動が限定されて冒険の出来ない状態となったたが、逆に精神世界の冒険を好むようになった。現在、両親が要介護者になったこともあるのだが、数年前から、私の冒険スピリットに火がつき、精神世界の冒険が本のことでは済まなくなっていた。

そして、現在、人生で一番の勉強の時を得ている実感がある。しかし、そんな時、何とパソコンの激しいトラブルで、あっけなくも幼子信仰に戻ってしまったのである。このパソコンが動かなくなったら、いくつかの計画が頓挫してしまう可能性があった。教育事業を続けることにも困難を感じてしまった。それだけパソコンに依存していたのだろう。

Windowsが立ち上がらなくなってしまった時、私の頭の中には「絶望」の二文字がよぎった。しかし、20代の時に助けられた聖母様のあの雰囲気に包まれ、「絶望」を「希望」に変えることができたのは不思議である。

あの時、私はルルドのベルナデッタのようにご出現の聖母様に会いたいと心から願った。そんな私が、いつの間にか、聖母様を遠ざけていた。自分はより正しい知識を得ており、幼子信仰には戻ることは決してないと思っていた。

ということで、自分は弱き人間であることを自覚して、長らくご無沙汰していた聖母様へのロザリオの祈りに取り組むようになった。つまり、基本に戻ったことになる。

これからは聖母様のご保護を得ながら、困難の伴う冒険を続けていこうと思う。

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2012年11月25日

やはり経験は大事かも?

今朝、経験について記事を書きました。

経験だけだと視野が狭くなると…

しかし、人を励ます際、生きた経験がなくては、その人に寄り添えないという部分は確かにると思います。この場合、成功に至るような優れた経験ではなくて、むしろ愚かな経験です。

「私と同じ愚か者がいたんだ」と知ると、その人の心は軽くなることでしょう。

自分にとって恥と思えた経験が、ある時、誰かを励ます時に、生きた材料となるのです。

少々、哲学的な話をしましょう。

座禅を組んで、煩悩を捨てていく際、経験不足の未熟者はあまりに未練が多いので煩悩を捨てられないのだといいます。

最終的には、座禅は煩悩のみならず、血を流す思いで得た知識や悟りすらも捨てなくてはならなくなります。そこまで捨てなくては、浄化された魂になれないからです。神の領域の入り口に達することができないのです。自分を完全に捨て去ってこそ輝く魂こそが本物なのです。

ある意味、座禅は「死ぬ練習」なのかもしれません。

何も座禅でなくても、キリスト教の黙想でも同じことなのだと思います。

そういう意味でも、良くも悪くも多く経験した方が、未練なく捨て去れるような気がしてなりません。

学問を大いにして、できれば良い経験を多く積む。いや、むしろ失敗の経験を多く積み、それにめげずに成功を模索し、目標通りの成功をするか、目標とは全く異なる成功をするかは別にして、死ぬ時には、未練なく自分を捨て去れる者でありたいものです。

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経験主義は、偏見を生む

アメリカ人に酷い目にあった人は、アメリカ人は憎むべき国民と言う。イタリア人にお世話になった人は、イタリア人は、愛すべき国民と言う。しかし、別のアメリカ人、別のイタリア人もいるわけで、経験は一面を見ただけで狭い見方となってしまう。

現場での経験が第一で、学問をしなくても現場の経験ですべてやれると思っている人もいるのだが、確かにある一面では抜群な才能を示すかもしれないが、またたく間に時代遅れとなってしまうのだ。

経験は、確かに重要なことだが、経験だけで語るとなると視野がものすごく狭くなってしまう。

だからといって、学問だけで語るとなると、現実離れした考え方に陥りやすいのかもしれない。

つまり、バランスが重要なのだと思う。

偏見の強い人は、経験主義者が多い。又は家族主義者で、親の考え方が絶対で(たとえば親が差別主義者だったり)、そこから解放されていないのである。私は、教育をやっている者なので、偏見をできるだけ持たない者でありたい。自分のまだ知らない部分を重要視して、冷静に判断できるものでありたい。

読書をする際、同じ視点のものばかりに傾かずに、時々、逆の視点のものを読むようにすると、視野が広がってくるし、多くの発見が得られると思う。

単に覚えるのではなく、このように発見が得られてこそ、進歩のある読書法と言えるのだと思う。



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2012年05月21日

世紀の天体ショーを楽しむ

今朝は家族で金環日食を楽しみました。盛岡は、雲ひとつ無い快晴で、まさに日食日和でした。

一昨日、自宅近くの文房具屋さんから、太陽が見える下敷き(147円)を2枚購入しておいたので、それを使って太陽観察をしました。1枚は父母に渡し、もう1枚は私と妻とで使いました。


6:20 右上が少し欠けはじめる。
7:10 右側が欠けた三日月となる。
7:35 薄いCの字となる。 テレビでは金環日食のベイリービーズが映し出されていた。
7:50 薄い逆Uの字となる。 盛岡では、これが限界。残念ながらリングにはならなかった。
8:30 左下が少し欠けた状態 日食が終わりに近づく。


父母が大喜び、特に父は子どものようにはしゃぎ、近所の人に太陽が見える下敷きを渡しては、感動を共有していたようです。

私と妻は、2階の寝室の窓越しに見えたので、布団に横たわって観察をしました。贅沢な観察です。

この金環日食、国内では25年ぶり、広い範囲で観測できるのは実に932年ぶりなそうです。


金環日食の次は6月6日の「金星の太陽面通過」です。太陽と地球の間に金星が入り、小さな“ほくろ”のような金星が太陽面を左から右に移動するように見えるのだそうです。同日午前7時10分ごろから午後1時48分まで観測できるとのこと。次回は105年後の2117年12月11日ということは、21世紀ではこれが最後となるのだそうです。

太陽が見える下敷きは、もう一度、楽しめそうです。



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2012年04月06日

これからの時代、自分を守る最大の武器が学力となる理由

人間が悪に走りやすいのは、知性を持っているからである(=原罪)。

その点では、知性ではなく本能で生きる動物たちの方が清い存在と言える。

さらに、脳性麻痺で知性を失った人は、自分で生きる力に不足しているとはいえ、動物以上に清い存在と言えるのである。私は、こういう人たちこそ聖人と呼んでいる。神に近い人だからである。


これから話すことは、超越的とも言える内容なので、戸惑われるかもしれない。大切な内容ではあるが、混乱を起こされては何にもならないので、あまり深刻には考えないで欲しい。結論を話すなら、学力を向上させる生活が身に付いている人は、これからの時代、だいじょうぶ生きていけるという内容ではある。


アカシックレコードとは、私たち一人一人の進化の歴史が刻まれた記録である。

もちろん、今、生きている様子もすべて記録されているのだ。

そのアカシックレコードとは、低い霊界にあるので、霊能者たちはそこを見て、私たちの繰り返されてきた前世や、近未来を語ることが出来るのである。

ただ、アカシックレコードとは、死者が輪廻転生するための重要な役割を持っているものの、その低い霊界には神は存在していない。それゆえ、アカシックレコードは、サタン(悪魔)や悪霊も見ることができるのである。

キリストが輪廻転生を唱えなかったのは、その低い霊界と関わることなく、神が存在する高い霊界へと導きたいからではないだろうかと考えられる。

聖書には、この世はサタンの支配下にあると書かれてある。この世の成功者の多くは、つまりは巨富を築く者は、サタンの力あってこそと考えることもできる。

実際、闇の力が世界を支配しているのも事実である。そして私たち人間は、その力に対して全くの無力なのである。闇の力は、平和を願い行動している人々をあざ笑うかのように、世の中を悪い方へ悪い方へと動かそうとする。戦争、テロ、環境問題、経済危機、彼らは自作自演をしては、自分たちに好都合となる戦いの標的を作り出し、人々を扇動しているのだ。私たちは、彼らの手の中で転がされているに過ぎない。

闇の力は、地球支配階級と化してきている闇の側のエリートたちを頂点としたピラミッド社会を築き、闇の側のエリートたち以外は、ほぼ奴隷のような立場として生きなくてはならなくなるのである。そうなる日は、近いのである。

そのエリートたちとは、白人なので、わたしたち有色人種には分が悪い。

では、わたしたち有色人種が奴隷にならずに生きるには、どうしたらよいのだろうか。

それは、かつて古代からユダヤ人たちが生き抜いてきた知恵に学ぶべきだと思う。ユダヤ人は、キリストを裏切った民として、大変な差別を受けて生きてきた。彼らは、商業組合のギルドにも入れてもらえず、普通の人間のレベルでは、奴隷になるしか道はなかったのである。

そこで、ユダヤ人は、「ユダヤ式教育法」を作り出し、子供の教育に力を入れた。ユダヤ人は、医者になるか、貿易商や通訳といった知的分野にしか生きる道がなかったのである。

現在の日本は、すでに国自体が破綻しかかってきている。かつては頭の良い民族であったのだが、経済発展にばかり目を奪われて、他国ほどに子供の教育に力を入れてこなかったので、近年になって子供たちの学力低下が問題になってきている。つまり、未来における競争力も低下しているというしかないのだ。

もはや国を救うことは絶望的かもしれないが、子供たちを一人でも多く奴隷にしない方法を講じなくてはならない。国が破綻すると、若者たちの多くが、戦争に駆り出されたり、中国やベトナムなど安い労働力として駆り出され(ある意味、売り飛ばされる)ることだろう。

奴隷にならないためには、《闇の側のエリートたちから頼りにされるようなスキルを身に付けることにある》。ユダヤ人のように、医者になるとか、貿易商や通訳といった知的分野はもちろん、世界的ファッションデザイナーや、そのファッションを活かす美容師、ペットを育てるブリーダーでも良いと思う。ただし、並のレベルではダメなのである。

「並みの医者には治せなくても、ユダヤ人の医者なら治せるかもしれない」といった信頼感。そういった高いレベルによる信頼が、これからの日本人の若者に求められてくるのである。それゆえ、勉強好きにならなくては、これからの日本人は生きていけないのである。

土地があるのなら、奴隷にならずに自活していこうと考える人もいるかもしれない。しかし、土地はすべて闇の支配者に没収されてしまうので、そうはいかない。せいぜい、自分の家に庭があるなら、庭で野菜を栽培する程度が関の山だろう。ただ、農業のスキルがあれば、さらに先の時代に訪れる食糧難を生きる手段になるだろう。

とにかく、闇の力には一切逆らわないこと。彼らの好き勝手にさせること。批判をしても、抵抗運動を展開しても、風車に挑むドンキホーテのようなもので意味をなさない。ただ、私たちの希望は、「最後には神が勝つ」という『聖書』一番最後の記事、黙示録のシナリオであり、そう考えると何の心配もする必要はないと言えるのだ。

ここでは、サバイバル(生き抜く)ことをテーマに書いてきたが、人間は、死ぬからこそ、生きる意味があるのである。生きているからこそ、高い霊界への道が開けるのである。死者には、高い霊界への道は開けてはいない。だから生まれ変わらなくてはならないのである。良く生きて、良く死ぬことが人生のテーマなのである。だから、自殺をしてしまっては、輪廻転生する低い霊界に逆戻りするだけ、つまり人生(人間とは限らない)をやり直すだけなのである。キリストは、輪廻転生の世界に目を向けずに、まっすぐに神の世界を目指しなさいと教えているのはそこにあるのだ。

残念ながら、世界を動かしているのはキリスト教から派生した価値観であって、他の宗教は、世界を動かしているとはいえない。もちろん、その教えは素晴らしいので、学ぶ価値は十分にあるのだが、それだけでは《時代を読む》ことができない。闇の力については、『聖書』に書かれていることであって、まさに『聖書』の預言が成就しているのである。

次に生まれ変わった時は、今より進化したいと考えるのは、ナンセンスなこと。生まれた時に記憶が消されているので、カルマ(繰り返される煩悩)として前世からの癖が引き継がれ繰り返されることはあっても、その癖から良い悟りが得られるかというと、困難と言うしかないのである。生きている今しか、チャンスはないと考えるのが一番確実なことではないだろうか。


今、日本の子供たちに求められているのは、かつてのユダヤ人にも負けないような高い教育なのである。勉強嫌いな子は、これからの時代、奴隷になるということを若い親御さんによく理解して欲しいのである。

私が展開している教育は、勉強好きな子供を作っていくことにある。書道塾ではあるが、「集中力」「注意力」「持続力」を養い、さらに国語読解力ドリルや、漢検の学習も取り入れている。対話式教育を取り入れ、子供たちに「応用力」に繋がる、考える力を養っている。努力をポイント化して、カードに記録しているが、書道以外の努力もポイントにしているが、中でも読書に関するポイントは一番大きい得点としている。

読書の苦手な子は、奴隷になる子と考えているからである。私の関わる子供たちを奴隷にはしたくないと思う。「読書力」そして「調査力」。とにかく、本を読まない子には、未来は開けて来ないのである。

また、私自身も、並みの教師では奴隷になるしか道が無いのである。闇の世界の側の人々も、子供の教育では悩まされることだろう。そういう意味で、カリスマ的教育者になることが、これからの厳しい時代を生き抜いていくために必要なスキルであると考えている。

古代の頃から、何度も国を失ったユダヤ人が、何度も国を取り戻し現在に至るように、日本人も、どんなに国を失ったとしても、国を取り戻すことができるかどうかは、未来を託す子供たちに掛かっていると言っても過言ではないと思う。

勉強は楽しいもの、美味しいもの。そう考えられるのなら、だいじょうぶ生きていける。未来のことに心を押し潰されることなく、いかなる時代になろうとも、明るく、心に小さな幸せを絶やさぬよう生きていこうではありませんか。
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2011年09月26日

無題

 ある意味、「宗教が神を見えないものとした」とも考えられます。多くの人は、カリスマ的教祖様や、聖人のような人物でなければ、神と対話(交流)できないと思い込んでいます。そのため、カリスマ的教祖様や、聖人のような人物、つまりは宗教的組織に依存してしまい、自分と神(守護霊)との関係性が築きにくくなってしまっているのです。このことが、誰もが生まれながら持っている素晴らしい潜在能力に気付けないでいる大きな理由になっていると思うのです。

 ホロスコープの出生図(ネイタル)は、生まれた直後のものなので、まだ何も経験を積んでいない状態を示していますが、それゆえ、その人の前世を記したものではないかとも考えられるわけですが、占星術の一般的な見方では、「生まれて来る時の宇宙(神)との約束と本人の決意を象徴的に示したもの」と考えます。

 そのことを踏まえ、タロットカードを用いて、神(守護霊)と対話する方法を学んでいきます。対話する神(守護霊)は、お釈迦様でも、キリスト様でも、マリア様でも、日本の神々でも構いません。その人が、いちばん自然に入っていける形で始めることがベストです。あとは、その神(守護霊)の導きに従うことで、だんだん見えてくることでしょう(「神=守護霊」と交流するためには、自分の所属している宗教を大切にするべきです。また、他者の所属している宗教を非難してはいけません。非難は、神との交流を大きく妨げるものとなるからです)。


 守護霊と交流を持つ霊界とは、死後、輪廻転生の準備をするための霊界(※アカシック・レコード を含む霊界)とは異なる霊界で、生きているからこそ到達できる(死後では到達できない)世界でもあります。
 ※アカシック・レコード:これまで何度となく繰り返されてきた人生を神の視点により克明に記録されたもの。

 見えない世界については、近年、量子力学などの物理学において著しい進歩を見せていますので、今後どんどん解明されていくことでしょう。輪廻転生について証明される日も来るかもしれません。宗教は、本来、見えない世界との良い関係性を築くためのものだったのだと思います。しかし、宗教組織が大きくなり、権威的になってしまうと、信徒たちを縛る足かせのような方向性が生まれてしまい、個人と神(守護霊)との関係性を弱めてしまっているわけです。そういう意味で、視点をもう一つ増やすことは、とても重要になってくると思うのです。自分の所属する宗教と違った視点を持つことにより(または、まったく逆方向から見る視点を持つことにより)、最新の科学を理解するための頭脳の柔らかさに繋がっていくと考えられるからです。

 民主主義思想か共産主義思想か、キリスト教世界かイスラム教世界か、キリスト教会かフリーメイソンか。多分、どれも「宇宙の真理」とは無関係だと思うのですが、その真理とは言い切れないものによって世の中が動かされていることは紛れもない事実なのです(例えば、フリーメイソンは高い次元の霊界には存在しない価値観といえる)。さらに、私たちは目まぐるしく登場してくる新しい価値観に振り回されて生きています。そして、新しい価値観に付いていくのに必死にさせられているのです。神(守護霊)と交流を持つ人は、マザー・テレサ(1910−1997 カトリックの修道女、神の愛の宣教者会の創立者、1979年のノーベル平和賞)のように、こういった「真理とは無関係の価値観」に振り回されることなく(必要の無いものは所有しないで)、神の愛に生きる人なのだと思います。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

被災地より

東日本大震災から、ちょうど2ヶ月の5月11日(水)、津波に流されたおばあちゃんと、4歳の男の子のお葬式に出席するため被災地のお寺に出向きました。妻は仕事で行けないので、私の母と二人で現地に向かいました。国道106号線の途中、休憩で立ち寄った「ふるさと物産センター」には、自衛隊の車両がたくさん駐車していて、これから被災地に向かうのだという気持ちになっていきました。翌日12日のの岩手日報朝刊の記事によると、岩手県での犠牲者は、死者4,407人、不明者3,266人とのことです。

宮古市内は、かなり復旧が進んでいて、開店している店が多く目立ちました。車で走っていて、壊れている家と、そうでない家が数百メートル単位で交互に見えて、ちょっとした地形の違いで明暗が分かれていました。堤防の傍の家は無残に壊れていても、後ろに山を背負っている地形に建っている家は助かっていました。

お寺のある津軽石へ向かう国道45号線沿いになると、被害がさらに大きくなっていました。ここでも、山を背負っている地形に立っている家は助かっていました。

14時からお葬式が行われ、お葬式後、喪主たちの住む石浜の仮設住宅に向かいました。津軽石の橋を渡ると、赤前地区は、目を疑うほどの廃墟が広がっていました。「ここで、どれほどの人が亡くなったのだろう」急に頭痛に襲われました。

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仮設住宅のある石浜には、喪主たちの乗る車を追いかけて向かいました。正規の道路が通行止めとなっているため、一度も通ったことのない山道を走りました。その道への入り口が、まったく目印となる建物が無くてわかりにくいため、帰りには携帯のカメラで、何枚も写真を撮りました。細くて、しかもくねくねとカーブの連続です。30分ほど走ると、見慣れた道路に合流しました。とはいえ、くねくね道路には変わりありません。そこから気の遠くなるほど長い運転が続きました。

海に近い地域は、壊滅していました。凄いがれきでした。石浜に着くと、立っているはずの家並みが消えていました。高台にある仮設住宅に着き、そこから母の実家のあった筈の場所を眺めると、津波にさらわれたばかりか、大きな地すべりが起っていて、ものすごい量の土砂で埋まっており、数台のパワーショベルが土砂を片付けていました。石浜神社の石の鳥居は、無残にも根本から折れて流されていました。

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2階建てのプレハブの仮設住宅は、お祭りの縁日での出店が使うような自家発電で、仮設トイレは外にありました。畳にジュータンが敷き詰められていて、わずかな期間でよくここまでと思うほどの出来上がりでした。海の男たちのバイタリティーが感じられました。

16時半過ぎに現地を建ち、盛岡の自宅に着いたのは、21時を過ぎていました。ざっと8時間以上運転していたことになります。特に帰りの運転は、右の足首がとても痛かったことと、頭痛のために命がけの運転となりました。


6月4日(土)の盛岡芸術祭 声楽部門(13:00〜16:00 マリオス 小ホール)では、私は歌の方では参加しませんが、募金集め担当で参加します。私のお習字の塾の子どもたちと絵の入った募金箱を作っています。震災後の4月21日に乳がんのため亡くなった元キャンディーズのスーちゃんも、子どもたちの絵の中で復活して活躍する予定です。

こういった助け合いの輪が、日本を住みよい国へと変えていきますように。それが、亡くなった方々への一番の供養になると信じています。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 08:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月16日

Rise Again, Japan!







posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月13日

生きています

11日(金) 午前中、歩行困難な母の精密検査のため、妻と2箇所の病院を回る。
午後2時46分 大地震起こる。これまでの人生では体験したことの無いもの凄い揺れだった。まもなく停電。水道は使える。
プロパンガスも使える。ラジオの情報から、やがて断水になると聞き、20リットルのポリタンク4個に水を入れる。携帯の電話もメールもパンク状態で繋がらない。塾生にも、沿岸部に住んでいる親戚とも通じなかった。
食料は、買ったばかりで十分にあった。車のガソリンは私の車は、 ほとんど無い状態だったが、父の車は入れたばかりで十分あった。
夜は、ローソクの光で過ごす。単三電池で動くラジオが2台あり、それで情報を得る。電池は、リモコンや壁時計の電池を外して集めて十分確保できた。懐中電灯は、単四電池で動くものが2個あり、同様に集めて十分確保できた。
被害の大きい沿岸に親戚がいるので、被害状況の報道と、約1時間おきの余震のため夜も眠れず。

12日(土) 午前中、妻がスーパーで食料の買出しに行く。かなり並んだとのこと。また、災害用の食料の販売に限られていたのだとか、どの店も、売り切れて終了するか、停電なので、日没で販売を終了していた。
午後3時40分、断水となる。トイレの水は、風呂場の水をタンクに注ぐことで流すことができた。私は、15日締切の仕事を半分終えてから、ガソリンの給油に行ったのだが、並んでいる車の最後尾を見つけるのが大変で、3キロほどの列となっていた。もし並んでも、自分の番が来る前に売り切れになるか、ガス欠に陥るかと考えて断念する。しばらくは父の車を借りることにする。
夜は、昨日に引き続き、ローソクの光で過ごす。ラジオだけが情報のすべてであるが、被害状況のすさまじさと、続く余震のため、なかなか寝付けなかった。

13日(日) 午前 父と妻が、山岸活動センターで給水を受ける(20リットルタンク)。けっこう並んだのだとか、給水タンクがなくなると、次のタンクが到着するまで約1時間待つのだとか。私は、15日締切の仕事の残りをほぼ終える。震災で亡くなっていた叔母さんの安否をそこで知ったのだとか。
午後11時50分 電気が復旧午後13時頃〜15時頃 震災で亡くなっていたと思っていた叔母さん(90歳)が、盛岡の病院で治療を受けていて助かっていた。娘のところに身を寄せていたことが分かり、家族全員で面会に行く。帰宅後、水道も復旧していた。ただ、震度3程度の余震は、まだまだ続いている。


今回の地震は、マグニチュード9.0 世界最大級のもの。長さ400キロに渡る津波だったとのこと。岩手だけでも4万6千528人の避難民。東北6県では37万7千人。死者不明は、2100人超。安否不明は1万人を越えているのだとか。


災害時は、デジタル機器は全く役に立たず、アナログ機、しかもローテクなものが頼りになることを知った。


災害で必要だったもの

・懐中電灯
・AMラジオ
・単三電池、単四電池 ※リモコンや壁時計の電池を外して調達。
・ろうそく
・給水用ポリタンク(コック付き) ※震災後水が出るなら、すぐに入れて蓄えておく。
・乾パン ※プロパンガスは使えるが、燃料切れとなった際に必要になる。
・反射式石油ストーブ ※今回は、これが無かったゆえ、寒さが厳しかった。
・携帯電話 ※自動車のシガー充電か、コンビニで売っている充電器が必要。今回は、どちらも無かった。
・カセット・コンロとスペアのカセット・ボンベ ※都市ガスの世帯では必要。
・キシリトールガム ※水不足で歯磨きができない場合の虫歯予防対策。
・カップめん、レトルト食品
・紙皿 ※皿洗いの水が不足しているので、今回は、皿にラップをかけて使用して、使用後にラップだけを捨てる方法を行った。


ご心配をお掛けしました。
ようやく電気が使えるようになりましたが、生活が落ち着くまでは時間が掛かりそうです m(__)m



宮古、石浜の親戚の安否が不明です。ようやく電気が通じるようになって、ネットでの捜索をはじめましたが、何も得られていません。現場の道路状況が良くないことと、ガソリンスタンドがパニック状態で給油ができず、何ともならない状態にあります。海外からもレスキュー隊が来ているとのこと、無事をひたすら祈るしかありません。情報に耳を傾けながら、今何ができるか判断していきたいと思います。(3月14日13:25)
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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