2015年07月05日

頑張れない現代の風潮

前回、「頑張れること」の素晴らしさについて書きましたが、現実問題は、頑張れない人が増えているのではないかと感じています。「頑張れない」「死にたい」という心の方向性があまりに強く、修正が利かず、ついに自殺に至ってしまったケースも少なくありません。

盲人の目を開き、あらゆる病気を治したイエス・キリストも、奇跡を起こす前に必ず、「良くなりたいか」と尋ねます。

そして、「主よ、良くなりたいです」と言えた者に対してのみ奇跡を与えているわけです。

そうなると、「良くなりたい」という気持ちすら失っている場合、キリストの奇跡も起こらないということになります。

このことからも、「頑張れない」という心の方向性は、実に重い病気であると言うことができるのだと思います。

キリスト様も治せない?病気を私が治せるわけもなく、そういう人に対して無力であることは当然といえば当然なのでしょう。

ただ、そうなる前に食い止めることはできないものかと考えるわけです。これを食い止めるための子供の教育を行うことが、教育現場にいる者の使命とも考えています。

と同時に、そういった恐ろしい病に苦しんでいる人たちを支えていくことが社会の役割でもあると思うのです。この病気の恐ろしさは、一見、理解しにくいところがあります。単に怠けているのではないかと思われがちです。しかし、人との交流に難があり、あまりにも幸福感に乏しい状態を見ると、そうは考えられなくなってしまいます。

本人に良くするための力がない場合のことについてもキリストは教えています。それは、周りの人がよく祈り、必ず良くなると信じてあげることです。実は、盲人の目を開いた奇跡においても、その人が主に出会うまで、良くなりたいと長い長い期間、願い努力し続けた信仰があったわけです。つまり継続的な良い習慣の上に成り立った奇跡だったのです。

同様に、本人がダメな場合、周りの人が、継続的に良くなることを信じて、その人を支えてあげるという良い習慣を継続させる時、そこに奇跡が起こるのだと思います。

「継続は力なり」

いずれにしても信仰が問われるわけです。信仰とは、奇跡に出会うためにあるのだと思います。



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2015年07月03日

死は怖くない 心(マインド)と魂(ソウル)の違いを知ること

死の不安を克服することが、人が生きていくうえで重要な要素であり教育でなされるべき課題の一つです。

心(マインド)は、失われるものですが、魂(ソウル)は失われないものです。

例えば、脳に損傷のあるような大けがをした場合、脳の機能を激しく失い、その人は人格すら失うかもしれません。つまり、心は体と密接な関係があります。

しかし、魂は体とは別のところで機能しており、仮に脳に激しい損傷を負って人格を失ったとしても、失うことはありません。

ですから、医学が発達し、手術によって脳の機能が完全に取り戻せるのなら、その人は人格を取り戻すことができます。魂は失われていなかったゆえ、そこから取り戻すことができるわけです。その際、人格を失っていた、つまりは心と魂の交流が止まっていた時の記憶は無いことでしょう。

そう考えると、体あってこその心ですし、心と体の両方を失うことを死というわけです。

つまり、死んだからといって魂を失うわけではありません。

ですから大切なことは、体を大切にしなければ、心を健全に保つことはできないということです。そして、心を健全に保つことで、この世に生まれ、この世での体験を通して良い学びができるわけです。これは、魂のみの状態ではできなかった素晴らしい学びなのです。

さて次に、この失われることのない魂(ソウル)とは何かということになってきます。

一度きりの人生と考えるキリスト教と、何度も生まれ変わると考える仏教では、魂の意味合いが若干変わってきます。

ここで、どちらが正しいかと考えては公平さに欠けてしまいます。ですから、どちらにも共通して教えていることとは何かと考えると、心の他に魂の存在があることを教えているということです。永遠の命というのは、ズバリ魂を指しているわけです。

こうなると、人生に行き詰ったから自殺したいと考えることは良くないことであるということになります。

自殺したい人は、この世の現実から逃げたい、自分がいなくなった方が楽だと考えがちです。

しかし、死んだからといって魂は失われることがありません。この世での学びの時は失われますが、魂は霊界で、その続きの歩みをしなくてはなりません。

霊界とは、神のいる高い次元もあれば、神から遠く離れた低い次元もあると考えられています。私は神に近い次元を「天国」、神から遠い次元を「地獄」とイメージしています。これはあくまで「わからない」の世界ゆえ、キリスト教の考え方、仏教の考え方、あるいは別の考え方、どれにおいてもこれが正しいと決めつけることはできません。

ただ、自殺をした人が、霊界に行った際、果たしてどのような次元に行くのかと考えると、誰もが良い次元に行けるとは考えにくいことでしょう。

私はクリスチャン(キリスト教信者)なのですが、これまでに多くのキリスト教バッシングの記事を読んできました。そして何度となく、心がキリスト教から離れそうになりましたが、私はキリスト教による奇跡体験が多いので踏みとどまることができました。

ただ最近になってはっきりしてきたことがあります。キリストの教え、特に『新約聖書』の中の4つの福音書の教えとは、賢者への教えではなく、教育の乏しいものを含む万民への教えであること。そして、この4つの福音書の教えのみで十分であり、この教えに生きるなら、間違いのない生き方ができるということです。

どんなにキリスト教が間違っているとか、聖書はねつ造された書であると言われようとも、聖書は生きた書であり、これまで多くの人々に奇跡を与え、神の証を与えてきたことだけは事実なのです。

とはいえ私は、キリスト教のみが正しいとは考えていません。あくまで天国へ行くための方法の一つであると考えています。何が正しいかと一生迷って生きるより、足元を固めて堅実に生きる方が優れていると考えています。ですから、仏教信仰で生きることも同じように優れた道であると思うのです。

もちろんご家庭で仏教教育をしているとか、他の宗教による教育をしている場合においては、そちらを尊重し全力で協力していきたいと考えています。それゆえ親御さんとの連携がとても重要であり、情報を提供してもらわなくては良い方向性が得られません。その情報を基に、お預かりしたお子さんの良心を向上させる教育を進めていきます。私の塾では、グローバルな視野を持てる子供に育てたいので、世界にはいろいろな気候風土があり、そこに根差した文化があり、そして異なる宗教があることも伝えていきたいです。

ただ、特別宗教教育をしていないご家庭のお子さんに関しては、私自身が数多くの奇跡を体験し、証を持つキリスト教による教育を学ばせたいと考えています。もちろん、キリスト教にのみ偏った視野の狭い教育にはしないつもりです。ただ、何が正しいかと迷わせてしまうと意味がないので、子供たちが消化できるレベルで基盤づくりから取り組んでいきたいと思います。

宗教が何であれ、良心を保つためのしっかりとした基盤を持っている子は決して迷いません。基盤さえしっかりしていれば、多様な思想や文化を受け入れることも可能となります。世界中のいかなる人とも上手く交流できる術も得られることでしょう。ですから基盤づくりが重要なのです。教育現場には、宗教批判を持ち込まないのが基本であり、そこを守れない場合は、残念ながらやめてもらうしかありません。批判に関しては、親の言葉に原因があるようです。

基盤を持っていない人は、迷ってばかり、または批判してばかりで考え方が定まらずふらふらしているゆえ、信念を持った生き方ができません。これでは何をやっても中途半端になってしまいます。

そしてその基盤は子供時代に築かれるべきものです。この基盤は学校教育とは別物ゆえ、本来親から子に伝えるべきものです。中には、偉人伝など書物から得る子もいることでしょう。いずれにせよ、私はそのお手伝いをする教育を展開しています。


生きながら心を失わないような生き方をしましょう。

心を失わないように、さらに心を育てられるように、体を大切にしましょう。

そして死んでも、心と一体である魂は失われることはありません。

死は、新らたなステージに移行することを意味します。

そこは神と共に生きられるステージです。

私たちが、頑張って生きなくてはならないのはそのためなのです。

頑張って生きている人にとって、死は決して怖いことではないのです。

ですから、頑張って生きられるように心身を鍛えましょう。

「頑張れること」ができれば、どんなに不治の病に侵されようと、身体に重度の障害があろうとも、心は健全に機能しているという証です。魂が喜ぶ学びをしていることになります。

しかし「頑張れること」ができなければ、心にとっても魂にとっても、実に残念な状態にあると言わざるを得ません。

映画「マザー・テレサ」の終わりの方で、年老いて行くマザー・テレサに周囲の人々が「休息を…」と言うのに対し、マザーはニッコリ笑い、「やがて私には永遠の休息が待っていますから…」と答えていたシーンがとても印象的でした。

「頑張れること」の究極の姿がそこにありました。

「頑張れること」は素晴らしいことであり、だからお互いに(ほぼ無意識の内に)「頑張ってね」と励まし合っているのだと思います。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月25日

本当の自分に出会えたなら

あなたは本当の自分に出会っていますか?

私ってなんてバカなんだろう。

私ってなんてちっぽけな存在なのだろう。

そのように考えて落ち込んだことはありませんか?

そのように考えている人は、まだ本当の自分に会っていない人です。

私たちの肉体は、父方の血脈と、母方の血脈によってつくられた肉体によってできています。

つまり、血脈による身体と、脳が、ある意味、私たちに限界を与えているのです。

何であの人は、すぐに覚えられるのに、自分は何度やっても覚えられないのだろう…

何であの人は、すぐに応用できるのに、自分は単純なことすらまともにできないのだろう…

実は、こういったことは、血脈による肉体があなたに与えている限界が起こしていることなのです。

本当のあなたは、霊的な存在で、そこに居るあなたは長い長い生命の進化の歴史の中で培ったすべての能力を持った存在なのです。

時間にゆとりを作り、黙想する時間を持った方が良いのは、そこにあります。

より高い次元にアクセスし、まずは本当の自分に出会う必要があります。

宇宙の法則上、地上での修業を続ける上で、そのことを完全に引き出すことはできないのですが、感じることは十分に可能です。

自分の守護をしてくれる霊によって、たくさんヒントを与えてもらえることでしょう。

そして、まだまだ自分には、大きな可能性があることを感じられるに違いありません。

この肉体を鍛え、脳を鍛え、その能力を十二分に発揮できるようにすることが重要なのです。

もっとも重要なことは、これまでの進化の歴史の中では体験できなかった新たな体験をし、新たなチャレンジにより、これまで未体験だった壁を乗り越えることに意義があるのです。

得意なことばかりやっていては、無駄に時間を費やしているに過ぎないのです。

困難は、人を鍛えます。

困難は、奇跡を体験するためにあります。

奇跡体験は、魂の進化のために通らなくてはならない過程なのです。

肉体的に能力的にハンディがあるということは、そういう意味では大きな神の祝福です。

前世の行いが悪かったわけでも、先祖のせいでもありません。

神の世界に触れ合うために、とても必要なことであると知るべきなのです。

ですから、できない自分から逃げてはいけません。

本当の自分に出会えたなら、きっとそんな厳しい現実に立ち向かっていける勇者になれることでしょう。




P.S.
例えば、超頭の良かった人が60歳過ぎて、不幸にもアルツハイマー病になったとします。彼は、それまで築いてきた知識をどんどん失い、家族の名前すらわからなくなってしまいました。それは現実なのですが、それは彼の脳が故障してしまい魂からの受信ができなくなってしまったことに問題があるわけです。

つまり魂には全く問題はなくても、脳が故障してしまったので、そういった限界ができてしまったといえるのです。もし、発達した医学が、彼の脳を治すことができるなら、また元のように頭の良い彼が復活するわけです。

こう書くと、意味が分かってもらえるのではないでしょうか。本当の自分は身体や脳にあるのではなく、魂の方にあるという考え方です。

この人が、その後死んで、霊界に行ったなら、本当の自分に戻ることができます。しかし、霊界ではさらなる進化をするための修業はできません。それで、新たな自己開発を兼ねて新しい生命に生まれ変わってくるわけです。

そう考えると、恵まれた環境に生まれてきたから優れていて、悪い環境に生まれてきたから劣っているとは言い切れなくなってきます。なぜなら、困難を克服することこそが、魂の進化に必要なことだからです。

釈迦もキリストも、当時の差別的宗教観にあって、輪廻転生についてはあえて外して教えるしかありませんでした。当時の教育レベルはとても低かったからです。しかし、人類は教育的な環境を獲得し、そういった概念を差別的にではなく平等視できる高い次元でとらえられるようになってきているのです。

とはいえ、こういったことも「わからないこと」には違いありません。わからないことなのに、わかったと決めつけては科学の原則に反します。「ここまでは、何となく理解できたけど、ここのところはまだわからないから保留にしよう」で良いのです。きっとこれから解明されていくことと未来を楽しみに待ちましょう。

まず何よりも、自分自身のポテンシャルを最大限に生かせることが重要なので、自分の心に正直に、自分ならではの方法を見つけることが重要なのです。





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2013年04月08日

時を超えた美しさの秘密

時を超えた美しさの秘密



魅力的な唇のためには 優しい言葉を紡ぐこと

愛らしい瞳のためには 他人の素晴らしさを見つけること

スリムな体のためには 飢えた人々と食べ物を分かち合うこと

美しい髪のためには 一日に一度子供の指で梳いてもらうこと

美しい身のこなしのためには 決して一人で歩むことがないと知ること


人は物よりもはるかに多く 回復し 復活し 生きかえり

再生し 報われることが必要なのです

繰りかえし 繰りかえし報われることが


誰も決して見捨ててはなりません

救いの手が必要なときは、 自分自身の腕の端に、

その手があることを思してください


年をとれば 人は自分に二つの手があることに気付くでしょう

ひとつの手は 自分自身を助けるために

もう一つの手は 他者を助けるために

おまえの「すばらしき日々」はこれから始まる。

どうかたくさんのすばらしき日々を味わえますように。



オードリー・ヘップバーンが、亡くなる年のクリスマス・イブに
Samuel Levenson(サム・レヴェンソン)詩集 
『時の試練をへた人生の知恵』から ニ人の息子、ショーンとルカ
に読み聞かせたという詩なそうです。 

今年のイースター・ミサに向かう途中の車のラジオでこの詩を知り、
感動のあまり、車を停めてメモをしてしまいました。

世の中には、多くの矛盾があり、正しいと思っていることさえも
疑問を感じたり、失望したりもしますが、この詩の世界に生きられ
るなら、悔いのない美しい人生を送れるような気がします。

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2013年03月27日

幼児教育の重要性

以前、うちの塾で習っていた男子高校生に、大宇宙が終わることについての話をしたところ、

「僕は何も高い次元になんか行かなくてもいいから、消えてなくなってしまいたいと思う」

と話していた。最近の若い子たちはこのように考えるようである。将来就きたい仕事はと聞くと、

「楽できて、そこそこの収入が得られる職種」

と答えるのである。人のために役に立つ仕事はしたくないのかと聞くと、

「別にそんな気持ちはない」

と答えるのだ。

古くから私たち先祖たちから、子どもたちに天国と地獄の話をして死後の世界をイメージさせようとしてきた知恵がなんとなくわかるような気がした。

地獄があると考えるから、安易に死ねない。頑張って生きなければならないのである。

しかし、地獄という概念は、あまりに宗教的で霊学的でも科学的でもないため、私としてはあまり使いたくないのが本音である。

それにしても、最近の子どもたちは、なぜ向上心に乏しくなったのだろう。

最近の子どもたちは、神を信じなくなっているので、平気で悪いことをするのかというと、そうでもない。

私が子どもの頃の記憶に比べ、かなりおとなしい印象なのである。悪いことをすると、罰を受けるので損だということは理解できるようである。彼らなりの秩序を大切に思う考え方はあるようなのだが、どこか違う感じがする。

悪いことをしても後が面倒だからしない。という考え方なのだ。誰かに憎しみをぶつけるということは良くないことだが、そういったエネルギーすら持っていないのである。

無理せずにそこそこにこなし、なんとかやっていければそれで十分といった感じさえする。決して頑張らないわけではないが、高い目標に向かって頑張るというのはダサいと考えているのだ。

数々の悔しさをばねに頑張ってきた私には、どうも理解できない。これは平和的な考え方というべきなのか?

だから霊学の話をして聞かせても、

「頑張らなければ、そこに到達できないとするなら、高い次元の霊界には、別に行きたいとは思わない」

と考えてしまうようなので、話して聞かせる意味がないのである。彼らの思考回路を変えるは容易ではないと思う。

まあ、7歳までに人格は固まり、型ができるのだと考えられているゆえ、型ができるまでの期間の教育。つまり、幼児教育が最も重要なのかもしれない。

では、どのように教育したら、子どもたちは自然と向上心が持てるようになるのだろう?

そういった点にアンテナを張り、学習活動を進めていきたいと考えている。特にシュタイナー教育の研究を進めていく意義がそこにあると私は感じている。
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2013年03月24日

太陽よりも大宇宙の方が先に終わるかもしれない

大宇宙を風船に例えて、現在、パンパンに限界まで張りつめた状態だと仮定する。

ちょっと膨張したら、パーンと弾け散ってしまう。

太陽が寿命を迎える前に、それどころか地球の寿命を迎える前に、大宇宙が終わりとなってしまうかもしれないのだ。

イエス・キリストが輪廻転生を問題視しなかったのは、そういう視点があったからかもしれない。

もしかすれば、明日にでも大宇宙が終わりとなってしまうかもしれない。

今度生まれ変わったら… なんて呑気なことを言っていられないのだ。

私たちに与えられている修行の場は、今がラストチャンスかもしれないからだ。

そう書くと、もう頑張る意味がないなんて考えて無気力になる人がいるようである。

しかし、それは見当違いなことと言える。

大宇宙が終わったとしても、3次元世界が役目を終えただけであり、上の次元に到達できた者は命が続くのだ。

この世の修行のメインテーマとは、上の次元に到達できる者となるための修行をすることにある。

しかし、人類は自然を忘れ、神と遠い存在となってしまった。

多分、ギリシャ時代の人々は、私たちより神と親しく交流していたことだろう。

私たちは、金の価値観にまみれ、自然を失っていき、魂がどんどん退化しているのである。

幸い人間は知性が発達している存在なので、気付けた者は、魂の進化にシフトすることができるのである。

平安と調和の次元にアクセスできる魂へと成長できるのである。

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2013年03月23日

一年更新の人生

人間まだまだ生きられると思うから、欲張りになるような気がする。不平不満に陥るのだと思う。

「一年後に自分は死ぬ」と考えてみると、時間の過ごし方がかなり変わってくる。

○○は間に合わない。○○も間に合わない。

と、間に合わないことだらけなのである。

しかし、間に合うこともある筈だ。

というか間に合うことこそが、神と繋がっている事柄となってくるのである。

どうせ死ぬのだからと考えると、大胆にいらないものを捨てられる。

今やるべきことが絞られてくる。

まず、今触れ合っている人間が大切になってくる。

今やっている仕事が大切になってくる。

今触れ合っている人間に何をしてあげられるかを考える。

そして、死んだ時に困らない知識を学ぶことを優先させる。

これは、命のタイムリミットが少ない人間にしかできない行為といえる。

シュタイナーの霊学を学ぶことは、かなり有意義と言えるのかもしれない。

ブルース・ゴールドバーグもお勧めである。

瞑想とは、死ぬ練習として行うのなら意義が深まっていく。

つまらないことに時間を費やすことがなくなっていく。

今までに得た経験でできることで十分。その経験でできることを考えればよい。

死後、神の世界へ行けることが本当の人生の勝利とするなら、この世での成功はたいした意味はないと思えてくるだろう。

この世のヒーローにはなれなくても、天界でのヒーローにはなることができるのである。

ワクワクするような死後の世界。一年でそこに到達するために、価値なきものを見ぬき、ことごとく捨て去っていくのである。

1年リミットなので、1年生きられれば良いわけで、1年生きられるだけの借金をすればよい。

その程度なら、お金は借りられるし、食いぱぐれることは無い筈だ。

先のことを考えすぎるから、息苦しくなったり絶望するのである。

長期スパンで描く人生と違い、大きな夢は抱けないかもしれないが、ものすごく充実した時間は得られるのは間違いない。

もし、命日である筈の日に生きていたなら、また1年人生を更新すればよい。

無駄のない充実した時間が得られているので、少なくとも進化した魂で生きられる。もしかすれば、わずかながらも生活レベルも向上しているかもしれない。

本当は30歳を過ぎたら、一年更新の人生を歩むべきだった。実につまらないことに時間を浪費してきたように思う。

ただ私の場合、パソコンを始めたのが40歳だったので、パソコンを使いこなせるようになった今こそが、一年更新の人生に入る絶好のチャンスなのかもしれない。

パソコンがあれば、高額な書物を買うことなく、知りたい知識が得られるし、歌いたい曲のカラオケを作成して歌うこともできる。

私は、人前で歌う時が自分にとって最も清らかな時間なので、平常では得られない神との交流ができるし、その幸福感を聞き手に伝えることもできるのである。

パソコンを得て、そういった幸せを得れるようになった。貧乏ではあるが、会社を経営できるのは、ワープロソフトや会計ソフトを使いこなせるようになったからだし、そのことで自由な時間も多く得られるようになったと思う。

会社員だった頃は、休日以外は自分の意志に反した時間を強いられていたわけで、これでは、魂についての学びをしたり、瞑想する時間などどこにもなかったのである。

人生を一年と限定するなら、間違った価値観に騙されることなく、本当に大切なものだけが見えてくるように思う。

それって、素晴らしいことではないだろうか。

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2013年02月19日

失敗することが、この世の醍醐味

 大いに失敗し、痛み、苦しみ、修正していくことで魂のレベルが上がる。
 その中でも大きな失敗とは、恋愛ではないだろうか。
 恋愛がなければ、私たちの命は次へと続いていかない。
 盲目となり、狂った感情。
 感動や幸福感も大きいが、
 誰かを傷つけ、心の痛み、苦しみが伴ってくる。
 しかし、そこから多くの修正を加えていくことで、魂のレベルが上がるのである。
 はじめから、崇高な霊界を見つめていては、修正する作業ができなくなってしまうのだ。
 崇高な霊界を見つめ、光と調和のエネルギーを感じる自分と、感動と幸福感を味わい、
 その代償として、闇と不和のエネルギーに苦しむ自分。
 その両面があってこそ、この世を生きている意味があるような気がする。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 12:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月02日

自信に根拠はいらない

多くの場合、自信とは、過去の経験に基づくものと考えられています。優れた経験が自信を生むと言う人もいるようです。

本当にそうでしょうか。

ある人が、自分はパスタ屋さんになるんだと心に決めます。その人は、たいして料理をした経験はありません。パスタを食べるのが好きなだけです。

しかし自分はそうなるんだと心に決め、「絶対にパスタ屋さんになる」という、根拠のない自信を持つのです。

さらに、そのことを周りの人に公言するのです。周りの人は、次第にその人はパスタ屋さんになる人なんだと思うようになります。

そうすると、周りの人たちがその人に、あそこのパスタは美味しいとか、いろいろ情報を流してくれるようになります。ある人は優れたパスタの料理人を紹介してくれるかもしれません。そして、その人の料理を期待してくれて、味がいまいちなら、こうした方が良いとアドバイスしてくれたり、美味しいなら、大いに宣伝してくれるわけです。むしろ実力が無い方が、協力者が得られやすいのかもしれません。あまりできる人には、協力者が集まりにくいからです。「頼りなくても愛されるべき人間」であるというのがポイントなのかもしれません。

そうすると、その人の弱点は、協力者という形で、どんどん埋まっていくことでしょう。

そして、経済面も含めて、パスタ屋さんになるための条件がすべて揃っていくわけです。

このように、根拠のない自信から、素晴らしい未来が引き寄せられていくことを「引き寄せの法則」と言います。

逆に、根拠のある自信となると問題です。

それまで培ってきた経験からの自信ですから、未来の自分は、過去の自分を超えることが難しくなるのです。それは、心の視点が過去に向かっているからです。心の視点が過去に向かっている限り、過去の自分以上の新しい自分を築くことはできません。

私は、父母が公務員ですから、商売の経験がほとんどありません。商売を始めても、頭の中に商売のイメージが全く浮かばないため、やることなすこと失敗の連続です。父母は公務員の事なかれ主義に染まっているため、私のやることが全く理解できず、「恥ずかしいからやめろ」と言ってくるわけです。といって、私が何をやるべきかを一緒には考えてくれません。父に至っては、家から近い飲み屋に行っては私を「バカ息子」と言って悪宣伝を流す始末です。こういう場合、家族は全くあてにならないのです。

私は、これまでの経験で、未来を切り開くことは困難です。そうなると、根拠のない自信で切り開くしか道が無いわけです。わずかな才能を生かし、自分のやっていることを大いに宣伝し、大いに失敗し、恥をかき、協力者を得るしかないわけです。

恥をかいたからと言って自信を失う必要はないのです。恥をかくたび、目標に近づくことができると考えているからです。

私は決して成功者ではありません。生活は酷いものです。が、未来において、死後の世界において、成功を得ていると信じ切っている幸福者ではあります。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 22:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月26日

疑いと学び

真理を見出すために、「疑う」ことは別にどうでもよいこと。ただひたすら「学ぶ」ことなのである。

「疑い」の心が無ければ、実に広く学ぶことができるからである。とりあえず逆も調べてみるのは、「疑う」からではなく、学ぶ姿勢なのである。特に科学の世界ではその傾向が大きいかもしれない。色眼鏡で見なければ良いだけの話なのだ。

実際、仏教や神道を深く学んだからといって、キリストの教えの価値が落ちるようなことはなかった。ただ、一神教か多神教かということでは、かなり悩んだが、キリスト教の歴史背景等の学びを深めることと、学びの中で心に飛び込んできたインスピレーションによって、その悩みも軽くなっていった。

そこで最も問題となってくることは、真理とくっつけて考えられがちの所属のことではなく、人間の愚かな考え方である。ある宗教者は、他の宗教者を徹底的に批判する。自分の宗教すら、ろくに学び得ていないのにである。私は、どこの宗教に所属しようと、それは大した問題ではないような気がする。大切なことは、ただひたすら真理を求めて「学ぶ」ことであって、正しさを主張することは、決めつけでしかないのである。早とちりともいえる。一生涯、決めつける必要はないのである。

それ以上の学びは、さらに上のステージ(死後の世界)に用意されていると考えることにしている。修行の世、または試しの世といわれる、この世において、完全なる真理を得られるとは考えにくい。そうであっても、死ぬ瞬間まで真理を得る努力を続けたい。次のステージで生きてくると信じているからだ。

また悪人がいるから、人は隣人を「疑う」のである。罪とは、どこに所属するかという問題ではなく、人々の間に「疑う」気持ちを植え付けることにあると思うのだ。

訪問販売や押し売りの電話が来たりすると、これまでの経験から「騙されるのではないか」という思いが心をよぎる。本当に、相手を思う心でこの人たちが来ているとは思えないのだ。自分もこういった仕事をいくつか経験したことはあるが、あの時は、自分の心を騙し、自尊心を傷つけながらの苦痛の大きい仕事であった。また、それらの仕事は一時的なものであって今は存在しないのだ。誰かの金儲けのために利用されたに過ぎなかったのだ。その経験があるからこそ、どんなにお金にならなくても、人のために役立つ仕事をやっていきたいと思うのだろう。

悪人ではなくとも、「疑う」心を相手に抱かせることは、生きている限り免れないことではある。何もしなくても、勝手に誤解をして、私を激しく嫌うような人もいるからだ。

とはいえ、「疑う」気持ちを相手に与えるという、この罪を犯さないよう努力し、うっかり犯してしまったら悔い改めをして初心に戻って努力を続ける。これが、人間にとってまっとうな生き方ではないだろうか。

朝にジョギングをしていて、こんなことが心に飛び込んできたのである。


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2012年09月18日

「良くなりたいか」

「良くなりたいか」
(ヨハネの福音書 5章6節)


キリストの愛を体験する初めの第一歩は、この言葉に尽きるように思います。


奇跡体験とは、「良くなりたい」という強い思いに神が力を貸してくださってこそ起こることだからです。

子供たちにお習字を教えていて、「良くなりたい」という気持ちを前に出して頑張る子は、ぐんぐん伸びるのですが、「別に、良くなりたくない」と冷めた気持ちに支配されていて頑張らない子は、良い結果が出ず、良い結果を出している子をやっかんで意地悪をしたりします。

カウンセリングにおいても、「別に、良くなりたくない」という人には何もできないのが現状です。自分自身は、良くはなる気持ちはないけれど、周りの人には良くして欲しいという、わがままな気持ちに支配されて、周りの人を困らせているのです。周りの人が自分の思ったように動いてくれないことから、満たされない思いがどんどん積もってゆき苦しんでいるのです。その苦しみから解放されたいと、カウンセラーに実に間違った助けを求めているのです。

まずは、「良くなりたい」という視点に立たなくては、何も始まりません。

カウンセリングの基本とは(子供の教育にも言えることではありますが)、「良くなりたい」という気持ちを引き出してあげることにあるのかもしれません。

盲人の目を開け、らい病者の傷を清めたキリスト様でも、「良くなりたい」と思っていない人を癒すことはできません。奇跡は起こせないのです。

次に大切なことは、目に見えないキリスト様を近くに引き寄せることにあります。キリスト様に癒されているイメージを具体的に心に描けるようになることです。多分、私欲に関することなどのことにはキリスト様は近づいてくださらないと思えることでしょう。そうなると、「あれもこれも」といった考え方はなくなっていき、願いが一つのことに定まっていくことでしょう。「このことが叶ったなら、あとは感謝をこめて、自分で頑張ってみよう」といった具合にです。

そういった祈りは、すぐに実現されるわけではありません。あなたの気持ちが本気かどうか試されることになるからです。人によっては、1年もしないで実現されるかもしれませんが、ある人は十数年待たなくてはならないのかもしれせん。

十数年待たなくてはならない場合、それは悲しむべきことではありません。それは、神からそれだけ大きなビジョンを与えられていると考えられるからです。例えば、若くして成功してしまった人は、若くして固まった日常に生きなくてはならなくなります。忙しく、収入も大きいかもしれませんが、他の可能性は閉ざされてしまっているわけです。成功するまでに時間のかかった人は、遠回りした分だけ、実に多くの経験をし、たとえお金にならなくても貴重な財を得ることになります。その中には、「真理」という財も含まれるのです。この「真理」という財を得ない人は、必ず誰にでもやってくる死を前にしたときに、実に空しい思いをしなくてはならなくなります。

そう考える時、祈りの実現に時間が掛かることには意味があると悟ることができるでしょう。

人は努力が実るとどうしても「高慢」になってしまいます。この「高慢」が世の中に苦しみが存在する一番の理由となっています。

人はプライドを持つことで、努力し、難しいことをやり遂げることができます。高いプライドを持って頑張ることは決して悪いことではありません。

しかし、人を愛するということとなると、このプライドが障害となってくるのです。高いプライドは、他者を認めることを阻んでしまうのです。

スイッチを付けたり切ったりするように、プライドは「オン」と「オフ」で切り替えることができたらと思うのです。

キリスト様は、『私に従うために自分を捨てて、自分の十字架を背負って来なさい』と聖書の中で語っています。

この捨てるべきものこそがプライドであり、プライドを捨てたことで表面化してくる自分の弱さや欠点が、自分の十字架といえるのだと思います。

プライドで完全武装すると、人は強くなったかに見えます。その鎧を脱ぎ捨てると、実に情けない状態になってしまうのです。しかし、その情けない自分と向かい合ってこそ、自分は神様の助けが必要である存在であることに気が付くのです。この状態になってこそ、キリスト様は近づいて来てくださるのです。



下の録音は、一昨日の9月16日(日)にカトリック四ツ家教会にて行われた「歳の恵みに感謝する会(敬老会)」で私が歌った様子です。





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2012年07月16日

今朝の学び

信仰とは、大いなる知性なのである。
しかし、知性なき者に目を向けてこそ完成する知性でもある。

神は多くの場合、障害者(中でも最も小さき者)を通して、その栄光を示されるからである。つまり「神の愛」がキーワードとなる。

タロットカードや日本の神様カードは、ひとつの指針に過ぎない。「地の次元」を捉えることができても、「天の次元」を捉えることはできない。

もっとも、人々は「地の次元」に生きているのだから、そういった指針は力を持っている。

宗教も人間が描く神も「地の次元」に近いことを知るべきである。本当の神とは、宗教や人間が描く神の姿をはるかに超えているからだ。宗教が不幸な戦争や民族闘争と関わってしまうのは、宗教が「地の次元」に留まっていることを意味しており、そこには大いなる知性は存在しないのである。

しかし、宗教は、人間の心を「天の次元」に向かわせる道ではある。さまざまなルートはあるが、間違った道はない。険しい道もあるかもしれないが、必ずや真理の道へと合流するからだ。間違っていると言うのは、道のことではなく、「天の次元」に向かって歩まず、進化ではなくマンネリに生きることなのだ。

「キリストの道」を歩もうと「仏陀の道」を歩もうと、「天の次元」に向かう道なのだ。ただ、マンネリから近視眼的になっては意味がなくなってしまう。神の導きに心を開き、使命に生きてこそ、その知性は磨かれるのである。

だが、人はいつかは死ぬ存在であり、「地の次元」から離れなくてはならない日が来るのである。それゆえ、日頃から「天の次元」へ向かった心を育む必要があるのだ。信仰とは、「天の次元」であるゆえ、この世の成功とは何の関係も無く、切り離して考えなくてはならないのである。

テレビ番組を通して、または触れ合う人を通して、アカシックレコード(サタンも閲覧できる)が見ることができるなどスピリチュアルな能力に驚かせられることがあるかもしれない。しかし、それは地の次元に限りなく近い「低い次元」に過ぎない。信仰による天の次元とは、さらにさらに上の次元なのだが、スピリチュアルな驚きは、そういった「高い次元」の理解に向けてのきっかけにはなるのかもしれない。 

聖典の知識ももちろん大切だが、それだけでは単なる知識に過ぎない。その聖典のみ言葉を通して呼びかけて来る神の導きに心を向け、その導きから学ぶことのできる大いなる知性は、真理と呼ぶにふさわしい崇高さに満ち溢れているのである。


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2011年10月27日

神癒

昨日の朝、イエス・キリスト様とコンタクトできました。コンタクトできましたというより、していただと言うべきなのかもしれません。約20年前のポルターガイストの修羅場以来、2度目の体験といえます。

長年の信仰的な迷いが完全に晴れた感じがしました。特に輪廻転生の問題が、なぜ聖書で問題視していないかの理由についても、よく理解できました。が、残念ながら安易にインターネットでは公開できない内容なので、話せる人は限られてくるでしょう。しばらくは、誰にも話さないつもりです。

確信を持って言えることは、キリスト様は、いつも私たちの傍にいて見守ってくださっているということです。

人生は、生きている限り、何度でもやり直しができます。それが、「生きている」ということなのです。いわゆる天国へ行くという希望は、どんなことがあってもあきらめないで欲しいのです。



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2011年10月20日

目標を持って生きること

目標を持って生きている人

目標を持って生きていない人

その違いは、

目標を持っていない人は、他人ばかりか、自分の家族の足引っ張りをすることです。

目標を持っていない人は、他人や自分の兄弟姉妹たちに、嫉み僻み、不平不満、自分中心のわがままな心を向けやすいのです。

私たちの不幸の原因は、そこにあるといっても言いすぎではないでしょう。

しかし、目標を持っている人はその逆です。

他人の考え方、自分の家族の考え方に振り回されにくいのです。

他人や自分の兄弟姉妹たちが良くなることを願い、心から援助することができます。

それは、常に「向上心」を持って生きているからなのです。

ですから、どんな小さなことでも目標を持って生きる人は素晴しいのです。

その小さな目標が、次第に大きな目標へと成長し、優れた心へと成長していくのです。

あなたは、今、どんな目標を持って生きていますか?

そして、たとえ小さくても、いくつ目標を持っていますか?

どんなことがあっても、死ぬその瞬間まで、目標を持たないで生きる日が一日すら無いように、いつも心に目標を持ち続けましょう。

これは、人間が生きる上で、とても大切なことなのです。

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2011年08月18日

究極の目的

占いについていろいろ書いてきましたが、私にとっての占いとは、神様と交流するための入り口の一つを示したに過ぎないのです。占いはあくまで入門段階に過ぎず、コンシャス・ダイイング(生きているからこそ到達できる高い次元の霊界との交流)が究極の目的なのだと考えています。守護霊というか、魂のガイドとの交流は、あると無いでは、人生の目的が随分変わってくるように感じられてなりません。

コンシャス・ダイイングをするには心身ともに健康である必要があります。ベストの心身を得るには(ある意味神の奇跡が必要)、強い意志による修行をしなくてはなりません。私は特に健康面でスランプにあるため、健康のための時間を生み出すためには、日々やることを最小限に減らす必要が出てきました。しばらく、記事の更新はお休みさせていただきますが、必ずここに戻って来たいと思います。


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2011年08月04日

変われる人 変われない人

寄り添う。人は、寄り添ってもらうと安心する。心が落ち着く。幸福感が得られる。

そこから考えると、
カウンセリングは、ただひたすら聞くべき。
レクチャーは、相手には求めない形で行うべき。

これが鉄則。

自分を良く変えられる人は、「良くなりたい」という気持ちを強く持っているので、自力で求め、自力で変わっていけるのだ。

残念ながら、カウンセリングでは何も変わらない。カウンセリングでは、安心感、落ち着き、幸福感は得られると思うので、ずっと担当してもらえるカウンセラーがいるなら、何も変わらずとも何とかやっていけるだろう。

レクチャーは、その人に「良くなりたい」という欲求がある場合のみ機能する。その人のプラスの反応に対し、良い方向性へのきっかけを与えられることだろう。

世の中になることをしたいと思っても、カウンセリングにしても、レクチャーにしても、相手に伝わらないもどかしさを感じるばかり。それなら、ある人は、本を書いて発表すれば良いだろうし、お手軽なところでは、ブログやSNSに記事を書いて公開すれば良い。既に社会的な地位を得ている人なら、講演会を催すもよし。あとは、「良くなりたい」人の目に触れれば良いのだ。

ただ、子供たちにはそうはいかない。子供たちにとって、叱られることが、とても重要なのだ。子供たちは、叱られても、すぐには叱られた意味を理解できないことだろう。だからといって、優しく説明してあげるでは逆効果、今時の子供は、大人をなめて手が付けられなくなるかもしれない。だから、むしろ厳しく叱った方が、浮かれたふざけた気分を吹き飛ばし、気分を切り替え、やるべきことに集中させられるのだ。やるべきことに集中できるのなら、子供たちは充実感が得られるので、自信へと繋がることとなる。子供時代に叱られた経験が乏しいと、「良くなりたい」という心が育ちにくくなるのかもしれない。

子供時代には、寄り添える人間関係の他に、厳しく叱って鍛えてくれる人間関係がとても重要なのだ。

大人に話を戻したい。寄り添える人間関係だけでは、積極的なプラスの行動変容は期待できない。カウンセリングの限界がそこにあるのだ。

最近の大人は(自分もそうだが)、子供を厳しく叱れない。これでは、子供たちに「良くなりたい」という心を育てていくことにはならないのだ。

ここまで書いたのを読んだ人の中には、「では大人になると、もう救いようがないのか」と言われてしまいそうである。いや、大人は頑張らずに「今のままで」信頼できる人を見つけて寄り添い続ければいいのです。大人に、「変われ」と言うのは、ある意味暴力ともいえることなのですから。

でも、できることなら大人になっても、「良くなりたい」と頑張れるようでありたい。


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2011年07月24日

私の原点

私は、10歳の時に、スキー事故で左腕関節を複雑骨折しました。私より軽い怪我だったのだが、その時は私より重症と判断され、若い看護士さんが、救急車で病院に向かい、私はタクシーで病院に向かうことになりました。しかし、酷い吹雪のため交通がマヒしており、私が病院に着いた際には、私の意識がかなり薄くなっていました。

祭日だったこともあり、オペをする医師が到着するにも時間が掛かり、私の左腕は、青白く蝋人形のようになっていました。

医師の判断は、すぐに左腕を切断手術をしないと命が危ないということでした。ところが、父が、わずかでも可能性があるなら、腕が繋がる手術をしてくれと医師に頼んだのだそうです。医師は、もし手術が失敗して死亡しても申し立てをしないという書類にサインをしてもらわないと、腕が繋がる手術はできないと言い、父は書類にサインをしたのだそうです。

1回目の手術は成功しませんでした。ギブスに蓋を付け、開いた傷を治療する処置が何日か続き、その後、2度も大手術をすることになりました。

手術をしても、左腕の脈はなかなか打たず、切断手術になるかもしれない危機が長いこと続きました。

私は、そんな危機的な状態にあることを両親からまったく聞かされませんでした。

半年近く入院し、左腕の脈が打つようになったので、退院することとなりました。しかし、私の腕は石のように固く、うんともすんともいいません。指も全く動かず、ただ腕が付いているだけといった状態でした。

医師は両親に、私の腕は、これ以上良くなることは期待できないので、身体障害者として生きることはやむ終えないことと説明していたとのことです。

はじめの2年は、確かに身体障害者としての生活でした。自分で服を着ることも靴を履くこともできず、誰かの助けを借りないと何もできないもどかしさがありました。しかも、午前中はリハビリ、午後から学校への登校という生活が強いられました。勉強もかなり遅れてしまいました。

しかし、両親から治らないということを知らされていない私は、治らないのは自分が怠けているからと思い、必死のトレーニングを始めました。今、頑張らなくては、腕は治らなくなってしまう。そういう危機感をもって取り組みました。

何をやっても効果が出ずに苦しんでいた頃、どこからか得た情報で水泳が良いと知り、親にせがんでスイミング・スクールに通うことになりました。ところが、それまでの私は、自閉症ぎみな子で、運動音痴で、体育の成績は、5段階評価の1か2を取っているありさま。もちろん、水泳も金槌で、水中で目を開けることすらできなかったのです。

スイミング・スクールでは、私は幼稚園児のクラスに入れられることになりました。ロッカールームで、同級生に冷やかされ、恥ずかしい思いをしました。それまで、「くやしい」という気持ちをもてなかった私が、込み上げてくるくやしさのために涙を流しました。一説には、大量に輸血した血が、父が職場で集めたスポーツ万能の人だったということも、私の性格変化に影響を与えていたのかもしれません。

わたしは、親にせがんで、毎日プールで練習することになりました。腕が動かないので、真っ直ぐ泳ぐことはできません。つまり、自分で泳法を編み出す必要がありました。約2年の月日が過ぎ、6年生の水泳記録会で、私は50メートル自由形に出場しました。そこで、背の高いスポーツ万能の選手を、奇跡のターンによって私は破り、学校代表に選ばれたのでした。多分、あと10回試合をやり直したら、10回とも負けていたでしょう。本当に奇跡だったのです。その証拠に、学校代表として臨んだ市の大会では、ビリの成績だったからです。

それはともかく、私が水泳で活躍していた頃、腕が約45度ほど動くようになり、指も完全とはいかないまでも動くようになっていたのでした。執刀医は、私の腕を見て、「これは奇跡だ!」と叫びました。

そして、「君は奇跡の人だ。医師になれとはいわないが、人の役に立つ人になりなさい」と言われました。この言葉は、ある意味プレッシャーにもなりましたが、私が非行に走ることなく生きられたお守りの言葉にもなりました。

ちなみに、私と一緒に病院に運ばれた看護士さんは、私よりはるかに軽い怪我だったのにもかかわらず、多分、看護士としての医学知識が禍してなのかもしれません。リハビリのおじさんに、「だいじょうぶ歩けるから、頑張って!」と声を掛けられても、「ダメです。歩けません。」といって、自分の可能性を閉ざしている姿を見せられました。マイナスの思い込みとは恐ろしいものです。

それからは、奇跡が当たり前のように起こる日々が続きました。勉強の激しく遅れた私を励ましてくれた転校生との秘密勉強で理科のテストで100点を連発することに始まり、野鳥の研究では、学校代表として活躍。陸上部では、ビリからのスタートでしたが、何度か逆転勝利を体験し、中学3年の頃、担任がらみのイジメに苦しみ、一時無気力になりかけたこともありました。しかし、高校卒業後に目指した声楽の道では、やはりビリからのスタートでしたが、主席で卒業。イタリアの有名なオペラ歌手の公開レッスンを学校代表で受講するなど活躍することができるなど、奇跡を起こす勘を取り戻していきました。

「信じるなら、奇跡は起こる。疑うのなら、奇跡は起こらない。どうせやるなら、奇跡を信じてやった方が素晴らしい。」

もちろん、努力したからといって奇跡が起こるとは限りません。もちろん負けることもあります。負け続けて、めげそうにもなるでしょう。それでも、やめずに続けるのなら、自分に追い風が吹くことだってあるのです。いや、かならず追い風を掴める筈です。

ところが、民間のカウンセラーの資格を取ってから、私は奇跡に遠い人になっていきました。

私にとって、悪魔の教えとなったのは、現代カウンセリングのカリスマともいえる、カール・ロジャーズの教えでした。それは「受容」の理論なのですが、「頑張らなくていいよ。今のままですばらしい。」「何も変わらなくてもいいんだよ。今のあなたがすばらしい。」そういったメッセージが私をダメにしていったのです。あの時の私が、そのようなことを考えていたら、本当に奇跡が起こったのだろうか疑問に思えてならないのです。

確かに、頑張りたくても頑張れないうつ病者などに対しては、その対処法はベストであると思います。それまで頑張れた人が、脳の伝達物質か何かの関係で、頑張れなくなるのですから。しかし、私がそうだったように、大怪我を克服するような場合は、「今のままでいいのだ」では奇跡に繋がりません。悪い方に固まってしまったら大変。時間は待ってくれないのですから。

実際、子ども達の教育において、この受容の考え方は、見直さないと子どもをダメにする方向性に向かわせてしまうと危機感すら感じています。

というのは、カウンセリングを学ぶ前、私は精神薄弱者の職場実習で、かなり厳しくコーチをした結果、担当した16名全員を就職へと導いたことがあったからです。トイレに逃げようとするので、決められた時間はトイレに行かせなかったのでおしっこを漏らした園生もいました。コンクリート製品の鉄筋の部品としての鉄の棒をただ30度曲げる作業を毎日千本もさせたりしました。はじめは、半分以上不良品だったのが、数日で、数十本の不良品しか出さないレベルとなり、自分から仕事をしたいと言ってくるようになり、結局、健常者でも難しい鉄筋加工を全員できるようになったのです。最近の私は、この教育が出来ずに苦しんでいるのです。

「希望療法」と言うのは何だけど、希望を持って頑張ることは、必ず奇跡へと繋がっていき、自信を与えることになるでしょう。今の子どもたちは、あまりに希望が足りな過ぎると感じられます。当たり前に満たされているので冷めているのでしょうか。私のように、お尻に火が付いた状態で、背水の陣で努力するのなら、希望というものが絵に描いた餅ではなくなるのかもしれません。

そういうこともあり、私は崖っぷちを生きている子どもたちに素晴らしい可能性を感じているのです。彼らに、自分の歩んできた奇跡の起こし方を伝授したいのです。希望を持たなくては、生きていけない人こそが、神の子なのだと思うのです。

そして私は、今までのような嘘の優しさで人と接することはやめにしようと思うようになりました。一見、厳しいかもしれないけど、奇跡に導いていけるコーチのような存在こそが、本当に優しい人なのかもしれません。

私は、私の原点に戻ろうと思います。

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2011年07月05日

孤独のすすめ

孤独と孤立は違う。
孤独はみじめではない。
むしろ、
孤独でないと、学習活動は進まない。
孤独でないと、自分の哲学を確立できない。
孤独を楽しめるようになると、人生の幅がぐっと広がってくる。
人生がつまらなく感じられたなら、自分の殻に閉じこもり、孤独を楽しんでみよう。
中古のソファーを買ってきて、中古のオーディオを買ってきて、
深夜、
部屋を暗くし、わずかな光を頼りに、
音楽聞きながら、安いウイスキーを味わいながら、悦に浸ることからはじめよう。
酒はゴクゴク呑んではいけない。深く味わうのである。心地よさを味わうのである。
私のように酒がダメな者は、安くても薫り高い紅茶で代用するもよし。
すると、
今まで感じられなかった、優しい神の存在が感じられて、
孤独と対話している自分にふと気が付くことだろう。
自分がやるべきことが次々に見つかって、
何かに熱中している自分にふと気が付くことだろう。
孤独な時間の密度が増して、
以前とは全く違った自分へと変わっていく。
何も無理はしていない。自然にそうなっていくのである。
だから、孤独は素晴しい。
組織活動である宗教なんて糞食らえ。
組織活動だから争いが絶えないのだ。そして、人に上や下があってたまるものか。
個人活動である孤独こそが、本当の神と出会えるのである。
ホロスコープやタロットカードは、
ある意味、個人活動であり、自分との対話。
いや、神との対話へと発展していくことだろう。
ある意味、孤独との対話の入門編となり得るのだ。
夜ゆえに、悪霊にやられないよう、手剣で宙をぶった切り、場を清めてから始めよう。
ロザリオは聖母様と対話ができる。これも孤独者の素晴らしき道具の一つとなる。
クリスチャンでなくても、聖母様はしっかり答えてくださる。
むしろクリスチャンになると、組織活動に狂わされて、聖母様から遠ざかってしまうかもしれない。
私の信仰の基本はここにある。
夜の対話について、
中には悪魔との対話ではないかとあざ笑うものもいよう。だからこっそり始めよう。
小さき孤独者を愛するのは、悪魔ではなく神なのである。
貧乏は祝福に変わる。もしあなたがお金持ちなら、貧しい者にお金を寄付して、
自分を貧しくして、孤独者に仲間入りするべきである。
世の人々よ、孤独者を笑ってはいけない。
孤独者には、無限の可能性があるのだから。
いつか孤独者を卒業し、神の手足となって社会に貢献していくのだ。
だから孤独者よ、孤独者であることに誇りを持とう。
そして、自分は孤独者であることを静かに宣言してみよう。
その日から、間違いなく、素晴しい人生が開けてくるのである。

あなたは、今、孤独を感じていますか。
生きることが辛くないですか。
もし、そう感じているのなら、今すぐ始めてみよう。
何の勇気も要らない。努力も要らない。自然に任せるだけ。
貧しく小さき者であるなら誰でも、その素晴しい世界への道は開かれているのだ。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 11:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月22日

いじめっ子から学んだこと

確か小学3年の頃。クラスに大変ないじめっ子がいて、そのいじめのことでご父兄さんたちが動き出し、担任の先生がクラスの児童の何人がどのようにいじめられたか調査したのでした。

調査結果は、1名を除いて、クラスの全員がいじめられていたのです。その、いじめられなかったと書いた1名が、実は私でした。

登下校で、そのいじめっ子がいつも私に近づいてきたのですが、当時、自閉症ぎみで口数の少なかった私は、彼の話を流して聞いていました。

その子は、野球がよほど好きらしく、中でも巨人がごひいきチームで、テレビ中継をアナウンサーになりきって私に話して聞かせるのでした。私は、まったく野球に興味がなかったので、黙って聞いていただけです。ここで良かったのは、嫌がらずに聞き流していたことです。

もし、マジメに聞いて、自分は阪神ファンだとかいったら、敵視されていじめられたことでしょう。つまり、マジメに聞き過ぎるのも危ないわけです。

また、その子の話を聞くのを嫌がったり拒否したら、間違いなく、いじめられたことでしょう。

「オマエは、おれのたった一人の大切な友人なんだ。」

その子は、そう話して私に宝物やおやつを分けてくれました。

もちろん、私は、その子を友人だと思ったことは一度もありません。ただ、嫌がらずに聞き流していたら、勝手に相手が良い気分になっていたということなのです。

大人になり、私がブログやSNSをやるようになって思ったことは、親身になってコメントを書いたりすると、返って嫌われたり、感情を転移されて(攻撃の標的にされて)苦しめられたりする可能性が高いということです。

親身にならずに、適当に相手に同調した振りをしている分には、何の問題も起りません。

つまり、「NO」という言葉が、トラブルを作るということです。

「YES」で答える分には、何の問題も起りません。相手に問題があったとしても、こちらに火の粉が飛んでくることはないのです。

もちろん、「YES」で答えると言っても、親身に答える「YES」ではなく、嫌がらずに聞き流す程度の「YES」です。曖昧な「YES」を使って、誉め言葉を使って、相手を良い気分にされれば良いのです。

相手は、「NO」を家族から、周りの人から浴びされているわけで、「NO」の言葉にうんざりしています。「YES」や誉め言葉を受けると、幸せな気分になるので、心が落ち着きます。そうなると、幸せな気分を与えてくれる人間に嫌われたくないという思いから、相手に無理なことを求めなくなるわけです。

この技法は、落ち着きの無い子供に教師が接する際に応用できると思います。

落ち着きの無い子に「だめ」の言葉を使ってしまうと、返って逆切れされて大変なことになってしまいます。

そうではなく、何でも良いので誉めることを見つけるか、誉めることに繋がるように仕向けていくようにして、いっぱい誉めてあげるのです。すると、その子は幸せな気分になるので、先生に嫌われたくないと、少しずつ言うことを聞くようになっていくのです。

この誉め言葉こそ、アファメーションすることなのです。アファメーションとは、自信を与えてくれる言葉を繰り返し繰り返し唱え、無意識(潜在意識)にインプットする作業のことなのですが、その子の無意識を支配している否定的な言葉以上に、肯定的な言葉で埋め尽していくわけです。

この際も、理屈でどうのこうのではなく、曖昧なもので十分です。相手にとって受容的な空気を作り出すことができれば大成功といえます。

人は、変えようとするから変わらないのです。受け入れられれば、相手が勝手に変わっていくものだと思います。

私は、子どもの頃のいじめっ子との触れ合いを通して、カウンセリングで最も押さえるべきことを学習していたのでした。


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2011年05月04日

信じる力

信じるの裏側には、「わからない」があります。

試合に勝つか負けるかは、試合に出てみないとわかりません。

被災地の人々は、復興にどれ位時間が掛かるか予測も立たないような(つまりは「わからない」)酷い状態の中でも、復興を信じて頑張っています。

神様を信じているといっても、実際に神様を見たという人はいないことでしょう。

「わからない」からこそ、信じるという言葉があるのです。

でも、信じるとは、とても前向きな言葉。

良くなりたいから使う言葉なのです。

プロゴルファーの石川遼君や、野球選手の斉藤祐樹君がどうして強いのでしょう。

まずは彼らが、自分が良い結果を出せることを信じる力を持っていることと、彼らの父や母も息子のことを信じているだろうし、友人たち、同僚、何より全国のファンの方々も信じているわけで、こうなると「一人力」が「一万人力」にもなるわけです。

しかし、平気で嘘をつく人はどうなるでしょう。

嘘ばかりついていると、周りの人が信じてくれなくなることでしょう。

そうなると、信じてくれるのは自分だけ、つまりは「一人力」でしかなくなってしまいます。「一人力」の人が、「一万人力」の人と戦って勝てるでしょうか。?

人が強くなるためには、周りの人との信頼関係の絆を良くする必要があるのです。

人をだましてお金を稼ぐ人がいます。確かに一時的には大金持ちになれるかもしれませんが、信じる力は大きく失なわれてしまいます。そうなると、運にも見離されていき、破滅へと向かっていくことでしょう。

信じるとは、「わからない」が裏側にある。

「わからない」ところに神様がいらっしゃるのだと思う。

「わからない」を大切に、どんな人にも、自分にはない良いところがあると信じて大切にして生きたい。

誰かが、ちょっと間違いをしたからといって、その一面しか知らない状態で、その人は「ダメな人」と決め付けるような愚かなことだけはしたくない。

「決め付け」とは、信じる心を最も失わせる悪魔のささやき。

この「決め付け」という悪魔が多過ぎて、人々は信じる心を失っているのだ。

信仰もそう。クリスチャンだけが救われる。というのは、一つの決め付けではないだろうか。キリストを否定する者を敵とみなすことも同様である。どうして、あるキリスト教の国の人はイスラム教の人を平気で空爆できるのだろう。イスラム教の人は、全員テロリストなのでしょうか?

だって、キリスト教を否定する民は滅びの民と聖書に書いてあるから…

聖書もいいけど、聖書が本当に正しいのか直接神様に聞いてみたら?

大自然に聞いてみたら?

そんなこと言われると、わからなくなってきた…

それでいいのではないでしょうか。

「わからない」からこそ、決め付けることをやめて、信じ合う絆を大切にできるのです。

誰もが「わからない」ということを大切に生きていくなら、きっと世界は平和になることでしょう。

わたしは、「わからない」からこそ、キリストを信じているのであり、神の愛を信じているのです。

キリスト教が正しいと断言できないことを大切にしているのです。




実は、スピリチュアルな視点は、「わからない」ことを「わからない」と言える正直さがなくては見えてこないものでもあるのです。

嘘をついていては、信じる力(神の力)を失っていくのですから。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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