どうやら私は、神の意に反する歌手なようです。
どういうことなのかと言うと、
私が歌を歌うことは、神が望んでいることとはちょっと違っているようなのです。
なのに、ここ数年、私の歌手活動は、不思議とすべて成功しています。
そして、その演奏のすべてが神頼みであったことも事実です。本番は、堂々と歌っているように見えるかもしれませんが、いつも本番直前まで、自信が持てずに苦しんできました。
もしかすると、神が助けてくれる演奏ゆえに、私の演奏に神の光が感じらる人がいるのかもしれません。
私の歌は、神の意ではないゆえ、私は歌を歌うことで生活はできません。ありがたいことに、私の実力を超えるような額のおひねりをくださる方がいらっしゃるも事実です。だからといって、歌うことで生活することなどとうてい無理な話です。どうして、生活に繋がらないかというと、私の営業力に問題があるのではなく、神の意ではないからなのです。
それに私は、ファンの方々が思っているほどの実力がありません。練習ではまるでダメなのに、なぜか本番では上手くいっている感じがします。
楽譜を読むのはかなりの苦手なのですが、伴奏が流れていれば、たいていの曲は霊感だけで歌うことができます。実は、そこにも神頼みが働いているのです。なので、楽譜だけ渡されて歌えと言われると、小学生でも歌えるような簡単な楽譜でも歌えないのが、私の本当の実力です。最近は、パソコンに楽譜を入力すると自動演奏してくれるソフトを使用しているので、いかなる新曲でも歌うことは可能になってきています。私の場合、練習にピアノではなくてパソコンを使うことの方が多い感じがします。
音楽はスピリチュアルなものですから、実力があるからといって、多くの人に好まれるというものでもないようです。なので、私のような実力の無い者でも、スピリチュアルなセンスさえあれば、人前でそれなりに演奏できるというのも、音楽の魅力といえるのかもしれません。
では、どうして、演奏が成功してしまうのかというと、どうやら、神様が、私の意に合わせて応援してくれているからということに、ふと気が付くことができました。
「こんなに応援しているのだから、私の望み(神の意)の方も忘れずに頑張ってくれ。」そんな期待が込められているように感じられてなりません。
今年は、一昨年、去年に比べると、ほとんど演奏をしなかったことになります。それは、2月に母が心臓の手術のために入院し、母の書道塾の代役をしなくてはならならなかったこと、私のアイディア教育が良い結果を出すようになったものの、母と確執がどんどん深まっていき、そのストレスから、今度は私が過呼吸症候群と狭心症となり、歌うことができないような状態になっていきました。
その母との確執の問題も、ようやく終わりが見えてきました。お互いに死ぬほどに苦しまないと気づき合えない深い根の存在に、お互いに気づくことができたからです。今年は、とても苦しい一年だったけれど、人生において最も成長できた一年であったようにも思います。
昨日のクリスマス祝賀会での演奏は、奇跡的に成功できたものの、その前日の老人ホームでのクリスマスキャロルの方は、過呼吸症候群の発作が起ったためにキャンセルしなくてはなりませんでした。その約一週間前は、心臓発作が起り、病院でニトロールを処方され、薬を常に携帯するようになりました。年が明けたら、何より健康回復に全力を尽くさなくてはなりません。何事も、健康あってこそなのだと痛切に感じています。
私の意とは、子どもたちに教える教師です。上からの指示に従う公務員的な教師ではなくて、研究テーマを持って取り組めるようなクリエイティブな教師になることが求められているように感じています。残念ながら音楽の先生は、そこにはあてはまりません。むしろ、才能に不足している子どもを引き上げるような先生になることが私の意であるように感じられるからです。
とはいえ、ファンの方々に求められる限りにおいて、歌手活動は今後も続けていこうと思います。
現在は、歌の練習が全くできないような状態ですし、これからもしばらく、その状態が続きそうです。ということは、これからも神頼みの姿勢で、奇跡的な演奏をするといったスタイルになりそうです。プロの演奏家の厳しい姿勢を考える時、本当に申し訳ない程に練習をしていませんが、スピリチュアルな感性だけは、さらに磨きをかけていこうと思います。
ここ数年、インターネットを用いて、楽曲のアナリーゼを楽しむようになりました。これは、妻の影響でもあります。例えば… 最近は、ベートーベンの伝統的な演奏解釈に疑問を感じるようになりました。「ベートーベンの音楽は、本当に骨太の音楽なのか?」「ベートーベンの弟子達は、本当にベートーベンの真意を理解し伝えてきたのだろうか?」「先人達の演奏は、本当にベートーベンの音楽を忠実に表現したものといえるのだろうか?」
伝統的な解釈を疑って、楽譜を見つめ直してみることも面白いことの一つです。時代を超えて作曲家の実像に触れることは、きっと感動に出会えるように思えてならないからです。
これは、音楽だけではなく、宗教にもいえることだと思います。伝統に従うだけの考え方ではなくて、伝統的な解釈が本当に正しいものか、疑ってみることで、思いもしない崇高な真理に出会えるというのも、自由な社会に生きる現代人ゆえの特権なのですから。
ちなみに、宗教研究についても神の意ではないように感じています。ただ、ここにも、神の応援が感じられてなりません。
私は、どうも頭が悪いので、行き詰ると、やはり神頼みになる傾向はあります。頭の悪さは、ある意味では恵みなのかもしれません。頭が良ければ、神に頼ることがなくなるので、奇跡も何もない、つまらぬ人生になるかもしれないからです。
私が、キリスト教のみならず、他の宗教を研究しているのは、いわゆる正しい宗教を求めているのではなく、宗教を超えた真理による感動を追及しているように思います。むしろ、「
ふた通りのみつめかたをして、進んでいく♪(高橋洋子 音楽CD「それは時にあなたを励まし、時に支えとなるもの」より、「恋のライセンス」/作詞:高橋洋子/の一節)」といった方が、心のバランスには良いのではないかと思うのです。多分、こういった物の見方においても、私の音楽作りにかなり影響していることは間違いのない事実ではあります。
しばらく、ブログの更新はお休みします(とはいえ、コメントは見つけ次第、できるだけお返事しますので、過去記事を読んでの感想等ありましたら、ぜひお寄せください)。
では、皆さん、良いお年を (=^・^=)ノ
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:41|
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