自分は、教師として未熟者の一人ではあるが、教師として歩んでいくための目標を掲げてみたいと思う。
まず教師は、児童生徒に対し、心の感度を良くする必要があると思う。
特に、教える教科以外の「人間として」の指導においてこのことは重要になってくると思う。
ここで重要視しているのは、「察する力」である。
言葉にしなくても、児童生徒の心の叫びを感じ取る力。
とはいえ、甘やかす事ではない。すぐに助けることでもない。
その児童生徒が克服しなければならないことに関しては、簡単に手を貸してはならないと思う。しっかり見守ることも重要なのだ。
そこに判断力が必要となる。
正しい判断とは、自分の経験や価値観だけで決めるようなことではない。「自然の法則」にも心を傾ける必要があると思う。
私たちの身体の中にもミクロコスモス(小宇宙)が存在し、そこには恒常性という素晴しい秩序が保たれている。私たちの心がどんなに乱れ、破壊的な方向性を持とうとも、私たちの意志とは全く別に、私たちが死ぬ寸前まで恒常性は働き続けようとするのである。つまり、私たちの身体の中に、すでに「自然の法則」は組み込まれていて、触れ合おうと思うのなら、こんなにも近くに存在しているのである。私たちの身体に組み込まれているミクロコスモスは、大宇宙の秩序とも繋がっている真理でもあると思う。
残念ながら、このことについては宗教は少し意味合いが異なる。すでに出来上がっている歴史的価値観ではなく、科学の世界同様、これからも解明されつつある永遠の価値観なのである。
人類は、まだその一部しか見出していないのである。
もちろん宗教は人間にとってとても重要なものであり、どこの宗教に属そうとも構わない。その人その人の尊い誇りを否定することなどできないからだ。宗教とは、人類の歴史的遺産でもあり、人々の生活から切り離して考えることは困難なものとなっているのである。しかし、ここで言う「自然の法則」とは切り離して考えるべきだと思う。
不完全な人間ゆえ、自力で完全なものに触れ合うことなど到底できない問題ではあるが、今できる最善を見出すことなら十分に可能ではないだろうか。
その最善を引き出すことが、教師の資質として重要な点となってくる。もちろん、わかりやすくアイディアに富んだ指導スキルや、教えることに対する知識や技能の習得は基本的に欠如してはいけないことではある。ただ、知識や技能、指導スキルだけでは、片手落ちとなってしまうことは否めないのだ。
「自然の法則」に敏感になるためには、自然と親しむ心も必要となってくると思う。花を育てたり、できることなら農業を行うことなども有効な手段であると私は感じている。
心の感度を最大限に高め、「自然の法則」を敏感にキャッチできるためには、心の曇りを拭い去る必要があると思う。
そのために生活の中に瞑想する時間を組み入れることは、かなり意義のあることだと考えている。瞑想において、知性とは、さ迷うもの、妨げるもの、でしかない。心の曇りそのものと言っても過言でないかもしれない。瞑想は、脳の活動を休め、霊的感度を高める効果があると思う。
そのことを実践する前に、心の感度を悪くするものをことごとく捨て去ること、思い切って処分するべきなのだと思う。
つい「べきである」と書いたが、このことは強制されて行うことではない。自分で気がついて、自分の意思で行わなくては意味をなさないからである。どうしても捨てきれないマイナスの欲求があるのなら、そのことを解決するまでは教師にはなるべきでないのかもしれない。いや、優れた教師になろうという熱い思いがあるのなら、必ず克服できるものと信じたい。ある意味、独身よりは結婚して家庭を築いた方が理想的なのかもしれない。とはいえ、克服の仕方はそれぞれ異なることなので、理想論を語っても仕方ないことではある。
瞑想をしながら身に付けていきたいことは、「裏表の無い生き方」である。
経験の少ない児童生徒にとって、裏表のある大人の価値観など到底理解できないし、そのことを見せ付けられても消化不良を起こしてしまうしかないのだ。
それゆえ、児童生徒の信頼を得ることとは、裏表の無い生き方を示すことなのだと思うのだ。そこでは、ごまかしは全く効かない。
さて、ここまで書いたが、教師といえ、誰もが始めは経験に乏しく未熟者である。私自身未熟者の一人ではあるのだが…
こんなことを書いてしまうと、教師の資質のある者など稀にしかいないということにもなりかねない。
しかし、そんなに大袈裟に考える必要などないと思う。
ここに書いたことは、あくまで教師が目指すべき目標であるからだ。書いている私にとっても、目標であっても、まだまだ到達していない境地なのだ。幸運にしてその境地に到達しているお手本がいるので、そのお手本にしている方の生きる姿が、大きな指針となっているように思う。自分もいつか、そういったお手本になるべく進化をしていきたい。
目標を持つこととは、最も重要なことと言える。目標を持たずに進むことは、生まれっ放しの考え方に陥りやすく、正しい判断ができなくなる。そのような教師と出会う児童生徒は不幸である。しかし、目標を持って進むことにより、目標に達するために必要な人との出会いや幸運といえる奇跡的出来事が引き寄せられていき、より良い進化をし続けられるのである。
目標さえしっかりしていれば、どんなに今の現状が情けないもであったとしても、必ず何とかなるものである。
航海をする際、行き先が決まっていれば、途中嵐に出会うようなことがあったとしても何とか乗り切って、最終的には目的地にたどり着くことができる。しかし、行き先が決まっていなければ、どうだろうか。その航海は不安の多いものとなり、その不安に引き寄せられて、悲惨な航海になっていくことだろう。
特に、教える教科以外の「人間として」の指導においては、メッキの剥がれるような口先だけの説教ではなく、教師の全人格を通して、道を示す者でありたい。さらには、心の感度最大限に高め、スピリチュアルともいえる「察する力」により、常に最善の判断を引き出せる者でありたい。
教師の心が幸せならば、児童生徒たちの心に幸せな気持ちが伝染していくものである。双方で共に幸せを感じ合えるようになった時、さらに大きな幸せを体験できるのである。その幸福体験は、児童生徒たちがその後の人生を歩んでいく上での大きな財産になっていくのである。そういう意味では、教師は心にいつも幸せを感じられる者でなくてはならないと思う。
小さなことにも幸せを感じられるセンスを身に付けたい。
良い教師になることと良い親になることとは、どこか似ている。ぜひ、「教師」を「親」に、「児童生徒」を「わが子」に置き換えて読んでみて欲しい。
これは、あくまで私の目標であり、教師は誰もがそうであるべきというようなものではない。
それでは皆さん、しばらくの間、留守にいたします。
(今日は、日本中が今世紀最長といわれる皆既日食で話題となった日でした。)