神様は、言葉を用いて語ってはこないように思う。
例えば自然現象を通して、魂を進化させてくれるような気付きを与えてくれることがある。
神道の神は、西洋の体系化された神学でいうなら、実に稚拙な宗教に見えるものではある。しかし、神道を宗教とは位置づけずに、長い歴史を経て確立してきたしきたり等を大胆に外して最小限のもので考え、ただ単に神話の神々のみに目を向けるなら、自然と対話するための道具(ツール)になり得るのである。そうすることで神と言葉を超えた対話ができるようになるのである。
しかし、それを他の人に伝えようとする時、言語化しなくてはならなくなるのだが、そこに問題が生じてくるのである。
神と自分との関係では、言語化しなくても通じ合えたものでも、それを他の人に伝えるとなると、もちろん言語化しなくてはならなくなるのである。
ところが、言語化するとなると、どうしても無理が生じてしまい、不正確なものとなってしまうのである。不正確なものゆえ、わかりやすくしようとすると嘘に化けてしまうことが多いのだ。そうしないと人に伝えることが難しいからだ。
神と人間との間では通じることも、人間と人間との関係となると通じ合えない。この図式は実に重要である。
聖書では、「はじめに言葉があった…言葉は神であった」(ヨハネの福音書の冒頭部)とあるが、神が言葉の存在であることには疑問が生じてくるのである。この一節を書いた弟子のヨハネは、立場が偉くなったことで少し気取ってはいないだろうか。そこに神から離れた人間性を感じるのである。
キリストは、少年時代に神殿で学者と議論をしていたとあるが、そのことからも、キリストは議論の神、ロゴスの神であるといえるのかもしれない。いや、肉体を持つ人間キリストをそこでは描いているのであって、神としてのキリストとなると言葉を超えている筈なのだ。弟子達は、その言葉を超えた世界に触れている筈なのだが、それを正確に言葉にできないというジレンマを感じたことだろう。
キリストは神であった。しかも、私たちの罪の身代わりとなって甘んじて死を受け入れた神であった。それだけで十分な筈である。むしろ情報が少ない方が、神との対話には都合が良いからだ。
しかし弟子達は、言葉を多く使いすぎて、さらには当時の世の中の常識であったギリシャ二元論まで融合してしまった感じさえ受ける。「正しい(善)か、間違っている(悪)か」「味方か、敵か」「天国か、地獄か」。はっきり白黒をつけなくてはならない狭い考え方が、読み手から自由を奪い、神との対話をできなくする逆の方向性を作り出してしまったのである。
私は、キリストと言葉を超えた交流を2度している。私がキリストを否定することができない理由がそこにあるのだ。だから、キリストは存在するということだけは自信を持っている。それをいろいろ語るとなると自論が入り、かなり不正確なものとなってしまう。簡単に言い切ると、大変な修羅場の中で、キリストが共にいて助けてくれた。そこでは何も言葉を交わしてはいないが、キリストと感じられた。日常では考えられない奇跡が起こった。それだけで十分なのではないだろうか。
キリストは、弟子達に言葉を残して欲しいと望んだのではなく、神の奇跡を体験し、生きた証人となり、後世の人に引き継いで欲しかったのだと思う。しかし、言葉だけが独り歩きし、さらには神学となり、哲学となり、私たちから自由を奪ってしまったのである。
私は、キリストとは異なる神との交流もしている。一部のクリスチャンが口を揃えて主張している、キリストではない存在はすべてサタンであるなどとは考えていない。キリストへの裏切り行為とも考えていない。なぜなら、その存在は、自然と調和し、宇宙の法則そのものであるからだ。言葉を超えたスピリチュアルな世界であり、私の魂を進化させてくれる素晴しい導きがそこにあるからである。
孤高の哲学者ニーチェは、「神は死んだ」と宗教を否定した。ロゴスそのものである宗教は、神の存在価値を引き下げたのである。しかし、ロゴスそのものである宗教が無くなったと仮定するなら、逆に「神は蘇る」のである。
ビートルズのメンバーであるジョン・レノンの歌った"イマジン"ではないが、宗教(イマジンでは「天国」)がなくなると仮定するなら、世界から戦争は無くなることだろう。それまで宗教に対して反抗的だった人々も、反抗心をぶつけるものを失い、自由の意味が激変してくることだろう。魂の原始回帰が起り、多くの人々の心が純粋になっていき、その輝きを増していくことだろう。
最小限の言葉による神への手がかりでもって、自然を通して、神と語り合う。これが最も理想的な人間の姿であるように私は思うのだ。
神道の神話が神と対話するためのツールとして素晴しいのは、そこにあるのだ。クリスチャンも、理屈に陥ることなく、キリストの生涯を見つめるだけにとどめるのなら、神と対話するためのツールとして機能しはじめることだろう。幼きイエズスのテレジアが言うように、キリストの生涯の書いてある福音書だけで十分なのである。そうであるなら、宗教としてのキリスト教が、必ずしも存在しなくても良いことになる。
私は、聖書について雄弁に語れる知識人よりも、どんなに知性に欠いていたとしても、言葉では表すことのできない神と交流した証を持っている人間の方を尊敬している。前者には、肝心の神の存在が見えないからだ。
ニーチェに関しては、勉強不足の状態なので、後日、多く書籍を手に入れて学びたいと思う。将来、論文にまとめるときの重要なステップになることだろう。ただ、論文(言葉)にしなければ認められないという社会のしくみにジレンマを感じてしまうのだが、その愚かさに神から離れた人間性を感じるのである。
私は、死後に到達する霊界ではなく、今時点、この世の現実を生きなくてはならないのだから。
この二つの異なる価値観に、矛盾を感じ、苦しんで生きている姿こそ。人間なのかもしれない。
これは、私がどこかで聞いた記憶が薄れていて正確には伝えられない話ではある。いくつかの話が融合されているかもしれない。とはいえ話を進めたい。
とあるサリドマイド児の青年の証である。彼は、思春期の時に、どうして自分がサリドマイド児なのかと悩んだそうである。
お寺の住職にそのことを尋ねたところ、「それは、あなたの前世がよほど悪いものだったからなのでしょう」と答えたのだそうである。青年は、自分はそれほどの悪人で、世間に恥をさらして償いをしなくてはならないとは、何て自分は汚らわしい存在なのだと自分を呪うしかなくなったそうである。
そんな時、ある人に聖書を読むことを勧められ読んでみたところ、「障害とは、その人の罪ではなく、前世の罪でもなく、神の栄光が示されるためにあるのだ」そういって、生まれながらの盲人の目を開いたキリストの姿を福音書の中に見つけ、彼は飛び上がって歓んだのだそうである。自分は汚らわしい存在どころか、神に祝福された素晴しい存在なのだと… それから、彼は猛勉強をして難関の大学に合格したという証である。
そのときの彼は、聖書を読むということに関しては、ビギナーに過ぎなかった筈である。しかし、ビギナーであったゆえに、神との交流に見事に成功できたように思うのだ。そこには宗教としてのキリスト教が存在することなく、聖書の世界だけが存在したのである。
その時のお寺の住職さんは、彼の心を傷つける方向性になってしまったけど、場合によっては逆に、キリスト教に躓き、仏教で救われるような働きも多く聞いているところである。このように、見えない導きが、その人にしか有り得ない独特のステップを重ねながら奇跡的な解決へと至るのである。
つまり、マイナスと思えるような体験も奇跡的ステップに繋がる重要な要素なのだ。そのことについては、理屈では説明できないのである。
ここまでのことを簡単に言い切ってしまうと、言葉が多すぎると、神から離れるということである。
信仰とは、単純なものがベストであり、証(神の奇跡)が伴っていなくては意味の薄れたものでしかないのである。
信仰とは、単純なものほど真実に近く。最先端の科学が証明する事実と一致することとなる。言葉が多いと多いほど、つまりは宗教というカテゴリーの中では、真実から離れた存在なのであり、最先端の科学からは遠のいてしまうのである。
神と言葉を超えた世界で語り合う。とは、そういうことなのだと私は考えるのである。
神は、愛の存在である。「自分の意志で、自分の責任で」愛に生きるのなら、必ず神は心に感じられるようになる筈である。