2016年01月18日

目を覚ましていなさい

今日は、昨日のミサの説教について書くつもりだったが、仕事が入ってしまい母だけを車で教会に送り迎えして、私はミサに出席できなかった。

とはいえ、今年の元日から教会に通い始めた母にとって、まだ友人が少なかったのだが、母を置いてきて、しかもミサが終わってから長いこと待たせてしまったのだが、一人私が車で迎えに来るのを待っていた母の周りに多くの信者さんが集まってくれて、そのことで母は多くの友人ができたようである。ある意味、母を一人で教会に行かせたことが、祝福になったように感じられた。

そこで今日の聖句は、今日の典礼ではなく、私が20代の頃には全く理解できなかったのだが、昨日、ふと理解できるようになったことについて紹介したいと思う。次の一節である。



その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして洪水が襲ってきて一人残らずさらうまで、何も気づかなかった。人が来る場合も、このようである。その時、畑に二人の男がいれば、一人は連れていかれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人が連れていかれ、もう一人は残される。だから目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである。(マタイによる福音書 24章36節〜42節)



一昨日、ティアラン著「私は宇宙人」Kindle版(電子書籍)をアマゾンから購入した。ボーっとネットサーフィンしていたら、偶然出会った本である。だから、不思議な出会いだと思えた。


作者によると、地球はすでに5次元に上昇していると言う。しかし、人間は、5次元に対応できていない。そこで、人間たちが消滅してしまわないように、地球はシールド・保護膜のようなものに覆われている状態にあるのだと言う。

しかし、その状態にもタイムリミットがある。ある時点で、人類はアセンションしなくてはならなくなるのだ。聖書で言う「主の日」なのかもしれない。アセンションとは、今の肉体を維持しながら次元上昇することなのだという。

そして、アセンションの日まで時間も残り少ない(2016年にアセンションの時がやってくるという人もいるらしい)。そこで、やれることは一つ。「愛」の度数を高めることなのである。

アセンションするということは、愛の度数の高い者が地球に残り、5次元に対応できない愛の度数の低い者は、3次元惑星に瞬間移動する(地球上から消える)という意味らしい。

作者によると、アセンション後は無駄に死ななくなるので輪廻転生はなくなると言う。つまり輪廻転生があるということを書いてはいる。私は、特別な場合を除いては、輪廻転生とは無意味なものという印象を持っている。決して魂の進化でも何でもない。キリストの言う、過去に生きるのでもなく、先走って未来に生きるのでもなく。今に永遠を感じて生きることが最も大切なことなのではないだろうか。

そして、今に永遠を感じられる魂の方向性により、「愛」の度数を高めることに全力で取り組むことができ、アセンション(主の日)に備えることができるのである。

今年は、騙されたと思ってこのことに全力で取り組んでみたいと思う。もしアセンションが起こらなかったとしても、「愛」の度数を上げることで、より優れた人間になれることだけは確かなので損なことは何もないのである。


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2016年01月11日

2016年1月10日 主日ミサでの学び

主の洗礼 ルカ 3:15-16, 21-22


3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、

3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。






先週までの典礼はクリスマスの祝いでしたが、今週からの典礼は年間へと切り替わります。

ところで皆さん水族館はお好きですか。葛西臨海公園の水族館には、巨大な水槽があり、マグロを回遊させています。ところが、ご存じでしょうが、そのマグロがどんどん死んでいき、ついに1匹だけになってしまったのだそうです。その原因は、ガラスに激突したことによるものなそうです。

その話は取っておいて、クリスマスのお話をします。ある所に、絶対に神様を信じない頑固なおじさんがいました。特に、神が人になるというところが全く理解できなかったそうです。おじさんの家には大きなガラス窓があり、そこに鳥が激突しては死んでしまうことが多かったのです。おじさんは、死んだ鳥たちがかわいそうになり、何とかならないものかと考えました。おじさんは、鳥になって考えて見ました。鳥になって、どうしてガラスに激突しなければならなかったのか考えて見たのです。その時、おじさんは普段疑問に思ってきたことがふと理解できるようになったのです。私が鳥になって考えるように、神様は、苦しみ悶えている人間たちがかわいそうになり、人となって救おうとしているのではないだろうか。

神は、人となり、罪びとの仲間となり、謙虚な僕となられたのでした。人間と同じ姿になって洗礼を受けたのです。私たちを引き上げるために、こんなにもへりくだってくださったのです。そこに神の愛があります。

神が私たちに望まれていることは、私たちが同じようにへりくだり、人々に奉仕し、人々を引き上げる者になって欲しいということです。そしてキリスト様に呼びかけられたように、私たちにも「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と絶えず呼びかけ続けられているのです。

第二朗読に、恵みという言葉が数か所出てきます。この恵みとはギブ・アンド・テイクなものではありません。善い行いに対する報いというのではなく、無償で与えてくれるという意味なのです。つまり無代価の賜物なのです。神が人となって救ってくれた、その素晴らしい恵みに対し「ありがとう」と感謝の気持ちを感じられる感性を持ちたいものです。神の慈しみを感じ、神のように憐れみ深くありたいものです。




いくつか聞き逃した箇所もあり、関谷神父様には申し訳ありませんが、上記の内容が、私が神父様から受け取ったメッセージです。関谷神父は、歌手で俳優の福山雅治のようなハンサムな風貌で、話し方もとてもハンサム、そして歌声が素晴らしい美声で、声楽を専門としてきた私としては歌声で神父様に負けたと思ったことはほとんどなかったのですが、今日は全くかなわないと思い、ただ聴き惚れておりました。イケメンに弱い母は、右側の席に座っていたため、関谷神父から祝福が受けられなかったのですが、左側に座るべきだったと、かなり残念がっていました。

へりくだる信仰、つまりは神の愛について教えていただいたと思います。神の側の人は、いかに良い習慣、良い信仰に生きていたとしても、お高く留まってはいけない。自分は無代価によって許されたものであるのだから、神の望みに生きるために、神の愛に習い、へりくだり人々のために奉仕する生き方をするべきなのだと感じました。

神は世の成功は全く認めてはくれません。そうではなく、いかに人々のために自らをへりくだらせて奉仕したかを見て認めてくださいます。クリスチャンは、そこのところを大切に生きるべきなのだと思うのです。

今年から、日曜日は母と教会のミサに出席しています。今日はミサ後のブロックの集いにも参加しました。教会の人たちに本当に親切にしていただき、母は幸せを感じられているようです。教会の床はピカピカ、とても綺麗に維持されています。奉仕している信者さんたちの心がそこに感じられてなりません。私は、両親の介護もあり、時間に全くゆとりが持てないゆえ教会の奉仕活動になかなか参加できません。しかしその分、感謝の気持ちをもって信者さんたちと接していきたいと思います。



ねこカフェは、いつの間にかクリスチャンカフェになってきたようです。どうぞ、コーヒーを飲みながら、ゆっくりしていってくださいね。もちろん、ねこもいますよ。出てくるのは気まぐれですが… まあ、記事を書いている者も、くつろいでいる時はねこと変わりないですが…



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

2016年1月3日 主日ミサでの学び

主の公現 マタイ 2:1-12


2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。




 ある有名な画家が、描くための着想を得ようと、妻子を家に残し旅に出ました。
 旅先で、最初に出会ったのは、結婚式を控えている娘でした。画家は彼女に、「あなたにとって一番大切なのは何ですか」と尋ねました。彼女は「愛です」と答えました。画家は、愛をどのように描いたら良いものかと自問しながら旅を続けました。
 次に、出会ったのは兵士でした。彼にも、「あなたにとって一番大切なのは何ですか」と尋ねました。すると「平和です」と答えが返ってきました。画家は、平和をどのように描いたら良いものかと自問しながら旅を続けました。
 三番目に、神殿で一人の信者に出会いました。彼にも、「あなたにとって一番大切なのは何ですか」と尋ねました。かれは、「信仰です」と答えました。画家は、信仰をどのように描いたら良いものかと自問ししながら旅を続けました。
 画家はキャンバスに何を描くべきか一生懸命に自問したのですが答えが出ず、自分の家に帰ってきました。
 すると、妻が溢れるばかりの優しさと愛情を持って出迎えてくれました。家の中には、旅の疲れを忘れさせてくれる安心感が漂っていました。そこに、子供たちが集まってきました。彼らの清らかな目に映っていたのは信仰の輝きでした。
 画家は、描くべき題材は全て家庭の中にあったのだと気が付きました。

 マタイによる福音2章11節には、「家に入ってみると」と書いてあります。その場所は、家ではなく、汚く悪臭のする家畜小屋であった筈です。幼子イエスとマリア様とヨセフ様、つまり聖家族がそこにいます。そこは、大切にしなければならないことの全てが揃っているのです。
 家とあえて表現しているのは、すべてのことが家庭にある。家族こそが教会であり、信仰・希望・愛の共同体なのだということなのです。
 そして、外へ出ていくのではなく、自分の内に戻ること。そこに、必要なもののすべてがあるのだということをこの聖句では示しているのです。
 この教会の中に、信仰・希望・愛があります。そして、あなたの家庭の中に、信仰・希望・愛があります。教会という共同体を、そして家庭という小さな共同体を大切にすることが、私たちが歩むべき聖なる道なのです。
(盛岡四ツ家教会 司祭:インセン神父)


 いくつか聞き逃した箇所もあり、インセン神父様には申し訳ありませんが、上記の内容が、私が神父様から受け取ったメッセージです。

 1月1日の元日ミサに続いて、歩行困難な母と共にミサに預かりました。暴力の人である父はキリスト教を極端に嫌い私も随分酷い目に遭いました。または母は父方の親戚に随分いじめられてきました。昨年、その父も重病に倒れ、入院、転院、強制退院、入院、転院と何かと大変でした。今は、手足を縛られ多臓器不全のため完全寝たきり状態ですが、ある意味、そのことで我が家に平和が訪れるようになりました。
 沿岸に住む母方の親戚は、約4時間もかけて父の見舞いに来てくれましたが、父方の親戚は誰一人見舞いに来ませんでした。お互いに憎しみ合っているからです。要注意人物として、一人孤独で寝ている父は、誰からも声を掛けられずに認知症が進行し、どんどん言葉を失っています。昨年末、母が「クリスチャンになりたい」と言いました。父と歩んできたことで、人間関係が薄い母は、自分もこんなになるのではないかという不安に陥ったのだと思います。そこで、私は母に協力しようと教会に戻る決心をしました。書道塾の子供たちを説得して、日曜日の午前中は主日ミサに通える時間を確保しました。神父様にも、母の洗礼の件で相談をしました。

 私は、ここ数年、シュタイナー教育の研究をしていました。シュタイナーからさらに枝葉を広げて、頭の中がパンクしそうな程に大量の本を買っては読み漁りました。そのことで、書道塾の子供たちへの教育で良い方向性を得ることができましたが、教会はどんどん遠のいていきました。

 私が母を連れて教会に戻ると、実に多くの人が暖かく迎え入れてくれました。今日、インセン神父がご説教の中で仰っていたように、教会の中は、信仰、希望、愛に満ち溢れていました。外に探して見つからなかったことが、帰ってから見つけられたという意味が分かったような気がしました。




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2015年11月04日

真理も悟りも

真理も悟りも天国の門に辿り着くまでは大変重要なものである。しかし、天国の門をくぐった後は、この世でのことは一切口にできない(「語ってはいけない」)のである。しかも、全て一から学び直さなくてはならない。それは平安な世界における、幸せな学びなのである。そして、この世での価値観が不要なものであることを悟り、完全に忘れ去ってしまった時には、私たちは天国の住人となっているのである。

では、天国の門に辿り着くための真理や悟りとは何か?

「自分が」という生き方(自己愛)ではなく、「苦しんでいる他者のため」(他者愛)に働くことである。東日本大震災の大津波で、高台に逃げて命が助かった人についてイメージしてもらいたい。「自分が」と考える人は、失ったものに心が捕らわれ悲しみに押しつぶされてしかめっ面でいるしかなく、中には自殺してしまう者もいた。しかし、「苦しんでいる他者のため」に働いている人は、彼と同じようにすべてを失っているにもかかわらず、笑顔を絶やさずにいられたのである。後者のような行動に移せる人は、天国の門に辿り着くために必要な真理と悟りをすでに獲得しているのである。

この世での楽しみを追求することは決して悪いことではない。人は元気でないと、良い生き方ができないからだ。ただ、こういったことは天国には持って行けないことを心のどこかで感じている必要があるということである。そして「苦しんでいる他者」を見つけたら、日頃培ってきた元気でもって、その人を励ますことに積極的であるべきなのだ。これは、イエス・キリストが語っている「最も重要な掟(愛の掟)」そのものなのである。

さて、もう一つ天国に行くために大切なことは、しっかりと秘密を守れることである。その人に「言うな」と言われたら、周りから言えとせがまれてもしっかりと口を閉ざし、言わないで通すことができなくてはならないのだ。「語らない練習」をすることも、この世での修業の重要なテーマといえるからだ。

私がこのようなことを言うのは、「刈り入れ(神の裁き)の時」が近づいているからである。輪廻転生(生まれ変わり)の考え方は私も正しいものと受け止めてはいるが、「刈り入れの時」というのが引っかかってならないのである。わからない概念に対し、無理に正しいと決めつけることこそ間違っていると言うしかないが、上記のような考え方(解脱論)も心のどこかにしまっておいて欲しいと勧めているのである。その程度に受け止めることで十分であり、それ以上でもそれ以下のものでもなく、これまでの日常を脅かす価値観など存在しないのである。

この言葉の薬は、静かに穏やかに効くもので、いつの間にか強い人へと変える効力を持っているのである。


つまり、元気が大事なことを言いたいのである。世界的人気プロレスラーのアントニオ猪木氏が、「元気ですか!!! 元気があれば何でもできる」と仰っている。世界を舞台に大活躍した元男子プロテニス選手の松岡修造氏もまさに元気の人である。「できる! できる! 君ならできる!」私も彼のメッセージに励まされている者の一人である。「苦しんでいる他者のため」(他者愛)に生きるには、とにかく元気が必要。元気を養わなくてはいけない。繰り返し述べることになるが、楽しみを追求することは決して悪ではないのである。


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2011年01月26日

神は、一切の偏りを持たない

人が言葉を発した瞬間、偏りが生じている。残念なら、人は偏(かたよ)りという呪縛から逃れることのできない存在なようである。

偏りが目立つか目立たないかということがあるだけで、人は何か偏ったものを支えに、または信じて生きている存在なのである。

思い入れが大きい、つまりは偏りの大きな人は修正がきかず、自分は偏っていることを何となくでも自覚できる偏りの小さな人は割と修正がきくように思うのだ。自由とは、偏りの少ないというニュアンスと一致する崇高な意識である。しかし、多くの場合の自由とは、流行に走るなど偏りのどつぼに嵌まっているのが現実である。

何かのファンになるという心の動きも偏りである。何かに熱中するということも… そして、恋は最も激しく偏るものといえる。それでも恋という形ではそんなに長くは続かない。ところが宗教となると、人生の歩みそのものを偏りの呪縛にかけてしまうものと化すのである。私が一つの宗教だけに染まらない理由はそこにある。

大人になるまでの家族と共に過ごした時間の中で刷り込まれたイメージも、偏りという呪縛となっている。これは無意識による偏りとなる場合が多く、実に根が深いのである。この点においては、私がなかなか克服できないでいる大きな課題となっている。

私は、神を見つめる時、この偏りを最も少なくしようと考えている。そうなると、言葉を捨てなくてはならなくなる。言葉が邪魔になるのである。言葉を捨てると、偏りが無くなっていき、自分の魂の状態が如実に明らかになってくるのである。宇宙に漂っているような状態だろうか。

何かに打ち込む、熱中することは素晴しいことである。そうしなくては高度なスキルは身に付かない。厳しい訓練を積み重ねてこそ到達できるような世界とは無縁の凡人には全く理解できないような高度な次元に触れることもできない。とはいえ、これは肉体と係わるレベルの問題であって、魂のレベルはまた違ったところにあるように思う。

つまり、そういったことばかりに時間を使っては、偏りという呪縛にかかったままなのである。だからこそ一日のわずかな時間でも、心を自由にできる時間を持ちたいものである。瞑想する時間を持つことは、心の自由を得るために有意義な方法ではないかと思う。そして神と交流するには、完全なる自由を得なくてはならないと私は思うのだ。

文章にするとどうしても偏りが生じるわけであるが、私が伝えようとしている神は、全く偏りの無い存在なのである。しかも、偏りのあるような方法から、偏りのない世界へとワープしているわけで、それゆえ、その次元に達する方法は無限に存在するのである。つまり、ワープした後の世界では、正しいとか正しくないといった考え方も消えてしまうのである。

素晴しいことは、この世で得た感動が、実に意味を成すことである。感動できる魂を築いていなくては、自分という存在も消えてしまうからである。どうやら、自分という存在を支えているのは、感動する魂にあるように思うのだ。

きれいな花を見て、

「ああ、きれいだな」と感じる時に、そこに自分の存在を確認できるのである。

「ああ、きれいだな」と感じられない人は、自分の存在を確認しにくいのである。

感謝できる魂も、自分の存在を確認するための意識であるように思う。

物質に溢れた現代社会において、しらけた心の人が目立つようになってきた。こういった人は、神の世界では自分の存在を確認できなくなってしまうように思うのである。完全なる中立的な神の世界に漂っていることには、大変な苦痛を感じることだろう。物質的価値観は、死後の世界には全く役に立たないからだ。

神の愛に生きるのなら、今世において、きっと多くの感動と感謝の意識を積み上げることができると私は信じている(このフレーズにも、しっかり偏りが存在しているように思う)。

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2011年01月24日

神は、成功を認めない

もし、親を捨てられたら成功できたというような人は少なくないように思う。

それだけ親で苦しんで、自分の人生を台無しにされている人は多いということである。

私は、親のことで苦しみ、心因性の病気で身体を蝕まれている。親を捨てられたなら、多分、病気も治るばかりか、成功も手にできるだろう。

私の知る成功者の中には、親と縁を切り、身軽になって成功の道を突き進んだ人が何人かいる。それだけ、親は成功の妨げになるものなのだと思うのである。

しかし、神はそういう形での成功を決して認めないのだ。もし、私が神に認められるとするなら、「7の70倍」をはるかに超える。親から受けた憎しみを許すことにある。許すといっても、相手は何も変わらないし、変わろうともしない。むしろ、これからも苦しみを与え続けることだろう。それでも、ひたすら許し続けることこそが、神が認める行いなのである。

相手を変えようとするとするほど、苦しみは増し、病魔が入ってくる。病気と言うのは、憎しみという感情により増殖するものなのかもしれない。そう考えると、相手を変えようとする考えを手放すことが重要となる。

憎しみに関しては、私にも爆弾キーワードがあって、そのキーワードをある条件で言われると、自分を失うほど興奮して取り乱してしまうことがある。時間を掛けて形成された憎しみは、簡単に捨て去ることができない理由がそこにある。もう恨まないと心に決めても、ふとしたことでぶり返してしまうのだ。

サタン(悪魔)を亡ぼすことができるのは神のみであるように、実は人間の浅はかな知恵では乗り切ることができない問題でもあるのだ。そう考えると、神にすべてを委ねて生きることこそが、そういった問題を乗越えるための方法と言えるような気がする。

わが家の場合、父は自分が神と信じているような人なので、私の信仰を激しくけなし傷つける方向性がある。母は、そういう父と長く共に過ごしてきたことで、凶暴な父に静かにして欲しいという理由から、父の側に付き、実に中途半端な対応をする。そればかりか、父に束縛されてきた思いを私にぶつけ、私を激しく束縛して、私の人生設計を父とは逆の優しさでもって、ことごとく破壊するのである。

この悪い人間関係を改善しようと、私は数えることも馬鹿臭いと思えるほどの努力をしてきたのだが、ことごとく裏切られた。裏切られるたびに憎しみが募っていったのである。その苦しみがあるゆえに、私は他人には異常なほどの優しさで接しようとするのである。いわゆる、「いい人」なのである。

この「いい人」でも随分苦しんだ。そのことで多くの人に心を踏みにじられた。それでも、親から受けた苦しみを解消する方向性を持とうとして「いい人」でい続けなくてなならない悲しい性なのである。愛に生きているというにしては、どこかいびつな感じなのかもしれない。妻によく、「いい人をやめたら楽になるのに」とアドバイスを受けるのだが、ここにも私の病的な性質が見え隠れするのである。

信仰といっても、何か優れた宗教に所属して、奉仕活動や慈善活動をすればよいというような問題ではない。本当に神と向かい合って生きるという真っ直ぐな信仰でなくてはならない。神と逆方向のものは、ことごとく捨て去り、修行僧や修道者のような純粋さを持たなくてはならないのである。

そこまでやらなくては、私は病魔に負けてしまうことだろう。親との問題(カルマ ※前世から繰り返してきた克服できないでいる根本課題)を乗り切ることはできないだろう。夢を手がかりにするなら、私は何度も成功をしてきたように思う。ただし、親を捨てての成功を…

50歳を目の前にする現在、自分の知恵で乗り切ろうとすることに限界を感じるようになってきたのだ。いまのままでは、わずかな収入しか得られないため、今後の生活は厳しくなっていくことだろう。こんな筈ではなかったのだが、それでも親を捨てなかったことで神とかろうじて繋がっているのである。多分、親を捨てていれば、私は成功者の一人になったことだろう。しかし、それと引き換えに神とは離れた者となったことだろう。どんなに苦しくとも、まだ神の側にいることが素晴しい救いなのである。

私は約30年もクリスチャンとして生きてきたが、それは肩書きのようなもので、それほど意味をなさないように思う。クリスチャンとして生きているからといって神と真っ直ぐ生きている人となると、かなり少数派のように感じられてならない。そんなものでは、神と真っ直ぐ向き合えないのだ。

私の場合、この歳にして、神と共に生きることにおいてのスタートライン立てたように思う。

そして、これからが生まれてきた意味をなす人生が始まるのである。神の本当の愛の姿に触れ合う旅が始まるのである。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

神は、言葉を用いない

神様は、言葉を用いて語ってはこないように思う。

例えば自然現象を通して、魂を進化させてくれるような気付きを与えてくれることがある。

神道の神は、西洋の体系化された神学でいうなら、実に稚拙な宗教に見えるものではある。しかし、神道を宗教とは位置づけずに、長い歴史を経て確立してきたしきたり等を大胆に外して最小限のもので考え、ただ単に神話の神々のみに目を向けるなら、自然と対話するための道具(ツール)になり得るのである。そうすることで神と言葉を超えた対話ができるようになるのである。

しかし、それを他の人に伝えようとする時、言語化しなくてはならなくなるのだが、そこに問題が生じてくるのである。

神と自分との関係では、言語化しなくても通じ合えたものでも、それを他の人に伝えるとなると、もちろん言語化しなくてはならなくなるのである。

ところが、言語化するとなると、どうしても無理が生じてしまい、不正確なものとなってしまうのである。不正確なものゆえ、わかりやすくしようとすると嘘に化けてしまうことが多いのだ。そうしないと人に伝えることが難しいからだ。

神と人間との間では通じることも、人間と人間との関係となると通じ合えない。この図式は実に重要である。


聖書では、「はじめに言葉があった…言葉は神であった」(ヨハネの福音書の冒頭部)とあるが、神が言葉の存在であることには疑問が生じてくるのである。この一節を書いた弟子のヨハネは、立場が偉くなったことで少し気取ってはいないだろうか。そこに神から離れた人間性を感じるのである。

キリストは、少年時代に神殿で学者と議論をしていたとあるが、そのことからも、キリストは議論の神、ロゴスの神であるといえるのかもしれない。いや、肉体を持つ人間キリストをそこでは描いているのであって、神としてのキリストとなると言葉を超えている筈なのだ。弟子達は、その言葉を超えた世界に触れている筈なのだが、それを正確に言葉にできないというジレンマを感じたことだろう。

キリストは神であった。しかも、私たちの罪の身代わりとなって甘んじて死を受け入れた神であった。それだけで十分な筈である。むしろ情報が少ない方が、神との対話には都合が良いからだ。

しかし弟子達は、言葉を多く使いすぎて、さらには当時の世の中の常識であったギリシャ二元論まで融合してしまった感じさえ受ける。「正しい(善)か、間違っている(悪)か」「味方か、敵か」「天国か、地獄か」。はっきり白黒をつけなくてはならない狭い考え方が、読み手から自由を奪い、神との対話をできなくする逆の方向性を作り出してしまったのである。

私は、キリストと言葉を超えた交流を2度している。私がキリストを否定することができない理由がそこにあるのだ。だから、キリストは存在するということだけは自信を持っている。それをいろいろ語るとなると自論が入り、かなり不正確なものとなってしまう。簡単に言い切ると、大変な修羅場の中で、キリストが共にいて助けてくれた。そこでは何も言葉を交わしてはいないが、キリストと感じられた。日常では考えられない奇跡が起こった。それだけで十分なのではないだろうか。

キリストは、弟子達に言葉を残して欲しいと望んだのではなく、神の奇跡を体験し、生きた証人となり、後世の人に引き継いで欲しかったのだと思う。しかし、言葉だけが独り歩きし、さらには神学となり、哲学となり、私たちから自由を奪ってしまったのである。

私は、キリストとは異なる神との交流もしている。一部のクリスチャンが口を揃えて主張している、キリストではない存在はすべてサタンであるなどとは考えていない。キリストへの裏切り行為とも考えていない。なぜなら、その存在は、自然と調和し、宇宙の法則そのものであるからだ。言葉を超えたスピリチュアルな世界であり、私の魂を進化させてくれる素晴しい導きがそこにあるからである。


孤高の哲学者ニーチェは、「神は死んだ」と宗教を否定した。ロゴスそのものである宗教は、神の存在価値を引き下げたのである。しかし、ロゴスそのものである宗教が無くなったと仮定するなら、逆に「神は蘇る」のである。

ビートルズのメンバーであるジョン・レノンの歌った"イマジン"ではないが、宗教(イマジンでは「天国」)がなくなると仮定するなら、世界から戦争は無くなることだろう。それまで宗教に対して反抗的だった人々も、反抗心をぶつけるものを失い、自由の意味が激変してくることだろう。魂の原始回帰が起り、多くの人々の心が純粋になっていき、その輝きを増していくことだろう。

最小限の言葉による神への手がかりでもって、自然を通して、神と語り合う。これが最も理想的な人間の姿であるように私は思うのだ。

神道の神話が神と対話するためのツールとして素晴しいのは、そこにあるのだ。クリスチャンも、理屈に陥ることなく、キリストの生涯を見つめるだけにとどめるのなら、神と対話するためのツールとして機能しはじめることだろう。幼きイエズスのテレジアが言うように、キリストの生涯の書いてある福音書だけで十分なのである。そうであるなら、宗教としてのキリスト教が、必ずしも存在しなくても良いことになる。

私は、聖書について雄弁に語れる知識人よりも、どんなに知性に欠いていたとしても、言葉では表すことのできない神と交流した証を持っている人間の方を尊敬している。前者には、肝心の神の存在が見えないからだ。

ニーチェに関しては、勉強不足の状態なので、後日、多く書籍を手に入れて学びたいと思う。将来、論文にまとめるときの重要なステップになることだろう。ただ、論文(言葉)にしなければ認められないという社会のしくみにジレンマを感じてしまうのだが、その愚かさに神から離れた人間性を感じるのである。

私は、死後に到達する霊界ではなく、今時点、この世の現実を生きなくてはならないのだから。

この二つの異なる価値観に、矛盾を感じ、苦しんで生きている姿こそ。人間なのかもしれない。


これは、私がどこかで聞いた記憶が薄れていて正確には伝えられない話ではある。いくつかの話が融合されているかもしれない。とはいえ話を進めたい。

とあるサリドマイド児の青年の証である。彼は、思春期の時に、どうして自分がサリドマイド児なのかと悩んだそうである。

お寺の住職にそのことを尋ねたところ、「それは、あなたの前世がよほど悪いものだったからなのでしょう」と答えたのだそうである。青年は、自分はそれほどの悪人で、世間に恥をさらして償いをしなくてはならないとは、何て自分は汚らわしい存在なのだと自分を呪うしかなくなったそうである。

そんな時、ある人に聖書を読むことを勧められ読んでみたところ、「障害とは、その人の罪ではなく、前世の罪でもなく、神の栄光が示されるためにあるのだ」そういって、生まれながらの盲人の目を開いたキリストの姿を福音書の中に見つけ、彼は飛び上がって歓んだのだそうである。自分は汚らわしい存在どころか、神に祝福された素晴しい存在なのだと… それから、彼は猛勉強をして難関の大学に合格したという証である。

そのときの彼は、聖書を読むということに関しては、ビギナーに過ぎなかった筈である。しかし、ビギナーであったゆえに、神との交流に見事に成功できたように思うのだ。そこには宗教としてのキリスト教が存在することなく、聖書の世界だけが存在したのである。

その時のお寺の住職さんは、彼の心を傷つける方向性になってしまったけど、場合によっては逆に、キリスト教に躓き、仏教で救われるような働きも多く聞いているところである。このように、見えない導きが、その人にしか有り得ない独特のステップを重ねながら奇跡的な解決へと至るのである。

つまり、マイナスと思えるような体験も奇跡的ステップに繋がる重要な要素なのだ。そのことについては、理屈では説明できないのである。


ここまでのことを簡単に言い切ってしまうと、言葉が多すぎると、神から離れるということである。

信仰とは、単純なものがベストであり、証(神の奇跡)が伴っていなくては意味の薄れたものでしかないのである。

信仰とは、単純なものほど真実に近く。最先端の科学が証明する事実と一致することとなる。言葉が多いと多いほど、つまりは宗教というカテゴリーの中では、真実から離れた存在なのであり、最先端の科学からは遠のいてしまうのである。

神と言葉を超えた世界で語り合う。とは、そういうことなのだと私は考えるのである。


神は、愛の存在である。「自分の意志で、自分の責任で」愛に生きるのなら、必ず神は心に感じられるようになる筈である。

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2010年02月13日

スピリチュアルの世界を開く鍵

(2010年2月13日 シャルトル聖パウロ修道女会 盛岡修道院における朝ミサ中に降りてきた啓示的な心へのメッセージ)


どの宗教が正しいかと考えることは大変愚かなことなのです。

なぜかというと、すべての宗教が自分の宗教が正しいと言う、偏りを持ったものであるからです。

それゆえ、宗教を通して、スピリチュアルの世界への扉を開くには、複数の鍵が必要となるのです。

一つの宗教では、あまりに偏りがありすぎるからです。

ただ、どの宗教にも「共通善」ともいえる教えが必ずあり、それこそがスピリチュアルの扉を開ける鍵の一つとなるのです。

残念ながら、どの宗教にも「独善」という、自分だけの宗教が正しいとする教えが含まれます。

多くの人は、この部分を最も重要としているのですが、スピリチュアルの世界では、全く必要としない概念なのです。

そうなると、「共通善」と「独善」とを見分けることが、とても重要になってきます。

それゆえに、宗教でスピリチュアルの世界の扉を開くには、一つの宗教、つまりは、一つの鍵だけではダメなのです。私たちには、心に一つの宗教のチャンネルしか持っていないと「独善」に傾きやすい性質があるからです。

ところが、たった一つの鍵だけで、スピリチュアルの世界を開く、マスターキーともいえる鍵があるのです。

それは、自然から学んで得た鍵です。

自然からの学びには、まったく偏りがありません。自分だけが正しいと言った「独善」は存在していません。

ただ、この方法で鍵を見出すことは、大変困難なことでもあります。

スピリチュアルな世界とは、個人と神との交流なので、ある意味、孤独な信仰といえます。

どんな人も、弱さがあり、一人ぽっちでは生きていけないことでしょう。宗教とは、人間関係を築く上で意味のあるものなのです。家族の絆を深め、また、結婚式や、葬式のような、人と人との絆の大切さを実感するための、人生を豊かにしてくれるための大切な場を与えてくれるものでもあります。

それゆれ、何か宗教に所属することには、大きな意味があるわけです。

21世紀は、宗教を新しい視点で見つめ直し、スピリチュアルな世界が開かれていく世紀となることでしょう。


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2010年01月28日

神と対話するためのツールとしての宗教

これは道徳教育の研究の一つとしての小論文ではあります。ある意味で、実験的な試みでもあります。


私は、長いことクリスチャンとして生活しています。『旧約聖書』を代表する預言者モーゼの前で、エジプトの神は、全く無力だったように、他の宗教の神は、無力で生きていな神なのだと長いこと信じ込んでいたわけです。

しかし、2年前に東京で出会った恩人の影響で、神道について学ぶようになってからは、神道を信じる方々との触れ合いを通して、神道の神も生きていることを知ることができました。

さて、この場合、どちらが間違っていて、どちらかが正しいのか、かなり悩みました。

いろいろ調べまくって苦し紛れの一つの解答としては、どちらも間違っていないと言うことです。いや、仏教徒であっても、ヒンドゥ教徒であっても、イスラム教徒であっても、神と対話することはできると考えるようになりました。

神と対話できる人たちの共通の特徴は、穏やかで優しい心の持ち主であることです。汚れ(穢れ)を遠ざけ、清い生活をしています。

神道においては、穢れは「気枯れ」すなわち「生命力の枯渇」のことであるとされ、その状態では人は罪を犯してしまいやすい状態にあると考えられています。つまり、穢れの問題をないがしろにしていては、スピリチュアルなパワーは得られないのです。神が、穢れの状態の人と対話することはないからです。

例えば、生殖に関する行為についてなのですが、本来は聖なるものであるはずです。「魂の進化の過程で、私たちは幾度となく誕生と死をくり返してきた」と考えられるからです。つまり、新しい命を生み出すということは、人類の魂の進化のためにとても重要なことと言えるわけです。

しかし、現実的に生殖に関する行為は、人間を堕落させる穢れとなる危険性を大いに含んでいるわけです。

キリスト教も神道も、そのような行為に対しては、時と場所を吟味するようにと定められています。仏教で言う「煩悩即菩提」ではありませんが、穢れは聖なるものへ聖化できるものでもあるわけです。煩悩(穢れ)無くしては、菩提心は持てないとも考えられます。大切なことは、神と対話するチャンネルを持っているかどうかということなのです。

私たちは、自分の思ったように生きようとしても、そうは生きられません。どんなに経済力に恵まれていたとしても、何もかも得られるわけではありません。特に、死という問題から逃れることはできないのですから。神の計画に従って生きるか、生きないかということは自由意志の問題であるとして、少なくても、死と同様に、与えられた運命から逃れられないものがあるように思えてなりません。

死とは、自然の現象であり、神の計画に必要なものと考えています。

最近、私が気づいたこととは、宗教とは、「何が正しいか」ということに意義があるのではなく、「いかに神と対話するか」が重要ではないかと思うのです。

神道においては、祈りは「意に乗る」すなわち「神の御心に自分の心を合わせる」こととされています。これは、キリスト教でも全く同じ考え方であり、自分の考えに神を従わせるようとする祈りではないのです。「神の御心に生きる」ことこそ重要なのです。

宗教とは、神と対話するためのツール(道具)のようなものだと思います。キリスト教式の方法もあれば、神道式の方法、仏教式の方法、ヒンドゥ教式の方法、イスラム教式の方法など、いろいろあって良いのだと思います。自分の宗教の正しさを主張し合うのではなく、神と対話することが、宗教の本来の意義であると思うのです。

そうなると、正しい宗教とか、正しくない宗教という考え方は、どうでもよくなってくるわけです。

私は、これまで通りに、クリスチャン生活を送っていくつもりです。それは、キリスト教式で神と対話することを意味しています。今年は、元旦から、28日連続で朝ミサに出席しました。毎日、心を込めて聖歌を歌うことは、声楽の良いトレーニングにもなっています。

多くの場合、教会のような良い行いを学ぶために通うところがないと、人は悪い方向に引っ張られやすいものではないでしょうか。自分の罪深さに苦しんでいるような人には、キリスト教はとても向いている宗教だと思います。そういう方は、門を叩いてみてください。あなたのメンター(心の助け手)になってくれる人が必ず見つかることでしょう。

神道も信心が深まっていくと、キリスト教に負けないほどに魂を磨き進化させることのできる宗教だと思います。ただ、教会のような学びの機会が少ないゆえに、その人の「追求心」に掛かって来るわけです。それゆえ、他者に依存しやすい人には、あまり向いていないのかもしれません。

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2010年01月23日

自分以外の自分との出会い

放送大学に学ぶ妻の勉強の協力をしていたら、ふと次のような文章が頭に浮かび書いてしまいました。まだ、未完成の(完成は困難とも思える)理論ではありますが、今後の課題とする意味で記しておこうと思います。


社会的自我論を学ぶと、デカルト(1596-1650 フランスの哲学者・自然哲学者・数学者)の「我思う、故に我あり」ではなく、「我々思う、故に我あり」となってくる。ミード(1863-1931 アメリカの社会心理学者・哲学者・思想史家)によるその理由とは、はじめから生物学的な構成物としての自我が存在していると考えるのではなく、自分以外の社会(「意味のある他者」)とのコミュニケーションによって積み重ねられていくことで自我が形成されていくという考え方なのである。

しかし、本当に、自分以外の社会(「意味のある他者」)のみで自我が形成されているのだろうか。

自分以外の自分(一つの見方として、「前世の自分」)との無意識での対話はなされていないだろうか。また、その無意識へのアプローチの方法によっては、自分以外の自分(「前世の自分」)への目覚めが起き得るのではないかと私は考えるのである。

そこで、意識下で考えることについて分析してみたいと思う。

1.生物的構成物としての自我:遺伝的要素(父的、母的、一族的…血縁的な方向性)
2.自分以外の社会とのコミュニケーションによって形成された自我:経験的要素(ミードの論)
3.1.の要素とは異なる自分らしさ(無意識で取る方向性):前世的との無意識での対話

「人は死ぬと、その後に生まれ変わることにより、無意識の側で生き続けるということではないだろうか」という仮説を立ててみた。

前世の自分と今の自分は、ほぼ一体化している。ほぼ一体化しているゆえ、区別が付きにくく、前世の自分の存在を見出しにくいのである。

ただ、前世の記憶は消されているため、記憶による対話には至らない。「心の方向性」による無意識の対話をしているようである。ただ、時折、その記憶が薄っすらと、断片的に蘇ることもある。そういった、薄っすらとした記憶の断片をつなぎ合わせていくと、前世の自分が少しずつ見えてくるのではないかと考えられるのである。

3.では、記憶による対話とならない故、どんなに前世で語学をマスターしたからといって、今世で何もしなくても語学ができるようになるということは考えにくい。あくまで、「心の方向性」なのだが、されど、この「心の方向性」こそが語学をマスターするのに大きく係わってくるのである。つまり、前世の引き出しの無い者より、ある者の方が、克服するスピードが早いと考えられるのである。そういう意味で、人格に与える影響は、決して小さいものではないと思えてならない。

前世の引き出しの無いことに挑むということは、前世の引き出しを持っている他者より遥かに時間が掛かるため、大変苦しみが伴うのである。できるだけ前世の引き出しの無いことに挑むことは避けた方が苦しみの少ない人生になりそうではあるのだが、前世の引き出しを使うだけの人生では、「今世の課題」に取り組んでいるとはいえない面もあるような気がする。苦手なことを猛烈な努力で克服して、得意科目にできるとなると、前世の引き出しはさらに豊かなものとなっていく。こういう方向性を持っている者は、指導霊的な方向性が生まれてくるような気がする。

その視点で考えて、自殺は良くないと考えられるのだが、自殺して人生から逃げたつもりでも、生まれ変わり、前世の影響が大きいということは、来世でも同じような課題にまた取り組まなくてはならなくなると言えるからだ。つまり、苦しみの問題からは、簡単には逃れることはできないのである。もちろん、家族やその人と関わってきたひとたちを悲しませせるという意味でも自殺は良くないと思う。

とはいえ、生まれっぱなしの生き方(目的を持たない生き方)では、生きていながら前世の自分には出会うことは難しい。スピリチュアルな知識とトレーニングがどうしても必要となってくるのである。

生まれ変わりとは、その人の強い希望で果たされると考える宗教家もいるようである。私は、すでに組み込まれている大自然の法則のようなもの(人体にも組み込まれているホメオスタシスのようなシステム)でなされるのではないかと考えている。

私はクリスチャンなので、前世や生まれ変わりという考え方を断定的に考えることはできない。ただ、日本人の多くの人は、仏教的前世観を持っていることから、そちらのチャンネルを持とうと努力しているのである。

何より、日本人に最も適した「道徳教育」を考える上で、こういった方向性の研究も有益ではないかと考えているのである。



今日書いた内容は、多分、2000年前のクリスチャンには理解できない内容ではないだろうか。『旧約聖書』の流れからいって、かなり逸脱しているからである。それに、科学的な見方は、現代ほど発達していなかったのだから…

とはいえ、キリスト教は、「愛」を学ぶ宗教である。キリスト教的には、前世がどうのこうのではなく、「愛」を学ぶことが最も重要なことと考えるのである。そこのところだけは、見失わないようにしたいと思っている。


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2010年01月20日

今日の朝ミサのご説教より

マルコ 3・1−6

安息日に、片手の萎えた人を癒されたイエス。その人に、生きることを望まれている神の愛がそこにあります。

しかし、世の中には、変な神も存在します。ヒンドゥー教の神にも見られる「死の神」とか、メキシコでも、教会を離れた信者さんの中には、がい骨の形をした神を信じている人もいて、麻薬とか、破滅的な方向に走っています。

さて、イエスと考え方の合わない、認めれないパリサイ人は、そのことでイエスを殺す相談をします。彼らの神とは、「生きる神」ではないということになってしまいます。

私たちの日常生活の中で、こういったイエス様の判断したことをどう生かしたらよいのでしょう。私が、「生きる神」、つまりは「真実の神」に心が向いているのか、「死の神」の方に心が向いているのか、見極められますよう神に祈り求めましょう。




(そこから、私が学んだこと)
イエス様は、助けを求める人には、憐れみの心で愛溢れる行動を取られているのですが、自分に批判的な者に対しては、怒りを向けたり、誤解を晴らそうと弁解することをしません。つまり、自分の側が正しく、間違っている相手を変えようといった高慢な考え方をしないのです。黙って、言われるがままにされています。相手に怒りを向けてしまうと、どうしても、相手を呪うような気持ちを抱いてしまいがちになります。怒りの気持ちをじっと心に納めておく信仰は、「人としての品位を高める」ものになると思います。単に理想を語るだけの者であってはいけないと思うのです。



今年は、1月1日より、連続20日ミサに出席したことになります。目標としては、イースターの頃まで朝ミサに出席しようと思います。イースターが過ぎると、農業の準備に入ります。

今年は、5月の「盛岡芸術祭声楽部門演奏会」で歌いたいと考えています。

昨日、競書の出品を終えました。今日からは、「毎日学生書初め展覧会」と「北光誌上書初め展」の審査と、出品手続き等でてんてこ舞いしそうです。子供たちには素晴らしい作品を書いてもらいました。手落ちがあってはいけません。ブログの方は、少し離れさせていただきます m(__)m

最近、アクセス数が増えているようなので、一言書いておきます。しろねこは、短気?集中型なので、記事は5分〜10分ほどで書いてしまいます。ただ、誤字が多いのが欠点でして、後で読み返しては修正を加えているわけです。ねこというものは、チャレンジした後は、ぐうたらして日向ぼっこしたりするわけです。そちらの面は、皆さん知らないのでしょうね (=^・^=)ノ




posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月19日

今日の朝ミサのご説教より

マルコ 2・23−28

世の中には、右側、左側、自由主義、共産主義、テロリストなど、極端に走りやすい性質があるようです。
イエスは、律法に対して、自由でした。
それに対し、パリサイ派の人たちは、偏りが大きいように感じられます。
宗教の中には、マリア像は要らない、十字架も要らないというものもありますが、それは「やりすぎ」なのだと思います。
私たちは、イエスに習って神の愛に生き、偏りが無く、真に自由であるよう神に祈り求めましょう。




(そこから、私が学んだこと)
崇高な理想とは、時に人を傷つける凶器になり得るものだと思います。私は、「クリーンな政治」を掲げた政治家の政策により、職を失い、自殺に追い込まれた人たちのことをを知っています。マキャベリの『君主論』ではないのですが、政治家とは、理想に走りすぎず、現実を無視せずに、時には泥をかぶり、人びとから非難をされながらも、バランスを考えながら少しずつ良い方向に動かしていくという考え方も重要なのだと思います。そういう考え方は、はっきり理解しずらいゆえ、一般受けしないものです。むしろ、一般受けするような考え方の方に、偏りのある危険性があるように思えてならないのです。真に自由にあるためには、全方位から考えられる視点が必要なのかもしれません。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月17日

スピリチュアルな霊界との通信ツール

最近、古神道について研究しています。日本の古代史は、6世紀以前の生きた人間について正確な理解が難しいものとなっています。なぜでしょうか?

その原因は、藤原氏にあるという説が最も有力です。当時、豪族たちの寄り合い所帯で情勢が流動的で悩みが絶えませんでした。8世紀に、救世主とも言える聖徳太子が登場します。彼の律令制により、官位を与える事で豪族達から土地を取り上げ朝廷の所有物とし、朝廷の政治基盤を磐石なものとしたのでした。しかし、その聖徳太子の息子の山背大兄皇子一族を、蘇我入鹿により滅亡に追い込まれたのですが、影で操っていた黒幕は、中臣鎌足。つまりは藤原氏だったのですが、『日本書紀』の編纂において、罪のない聖徳太子一族を滅亡に追い込んだ責任を蘇我入鹿になすりつけるため、我が国の古代史に致命的な改ざんを加え、『日本書紀』を嘘を嘘で固める「嘘ばかり集めた書物」としてしまったのでした。歴史の勝者が、政敵を悪と見なし、鬼(悪魔)に仕立てる。また、勝者を神へと仕立てていく…

ヤマト建国は、神武天皇が、高天原から高千穂の峰(宮崎県北西部)で租神が舞い降り、ヤマト(畿内)へ向かったことで成し遂げられたとなっており、3世紀に、その畿内で民を治めていたと言われる卑弥呼は、天照大神とリンクします。その卑弥呼を暗殺?して、北九州に邪馬台国を移した台与(トヨ/神功皇后で、「応神天皇=八幡様」の母)は、豊受大神とリンクします。などなど、『日本書紀』の嘘暴きと言う視点で読むことで、おぼろげに見えてくる日本の古代史の世界ではあります。

こういった研究をすることで、「人類が潜在的に持っている愚かさ」を強く感じ、打ちのめされることとなりました。

宗教の発生理由とは、やはり「人間の都合から」と考えるべきなのだろうか? 集団、さらには民をまとめ導くための決まりごと(掟)や、心が弱くなりがちな個人の意識レベルを上げるための自分に対する掟を与えるものとして…

そのことは、私自身のクリスチャンとしての信仰にも影響が及んできました。

『聖書』は、確かに素晴しい読み物ではありますが、決して正しい歴史書というわけではないようです。もともと預言者や使徒たちによって綴られたものであるとはいえ、長い時の流れの中で書き改めや削除や書き加えが施されてきた可能性が高く、原典はどうだったかについて知る手掛かりは何一つないのですから… イエスは実在しなかったという説まで唱えている学者もいるのですが、私はそうは考えていません。選ばれし民族と、そうでない民族の間での戦争(殺し合い)についてが描かれ、かつ厳しい掟で民を一つの考え方にまとめ上げようとする『旧約聖書』と対比して、「愛の教え」「自由の教え」を説くイエスの教え(『新約聖書』)は、実に感動的であり、否定する余地はないのです。

しかし、コンスタンティヌス大帝(初めてのキリスト教皇帝/313年にミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認)以降、やはり権力を持つ側の宗教という色合いが濃くなっていきます。これは一神教の宿命なのでしょう。神道においても、明治以降、欧米の列強に近づく意味で、天皇を一神教的存在(現人神/アラヒトガミ)に祀り上げたことで国家神道となり、不幸な戦争の歴史を歩むことになったのですから。

キリストにおいても、『日本書紀』でみられるように、死んだ後に神へと仕立てられていったような気がしないでもありません。4つの福音書にしても、キリストが亡くなった直後に書かれたものではないからです。イエスは、ユダヤ教では、一般に偽メシアと認識されています。この場合、「キリスト=神」というところが受け入れられない理由になっているように考えられます。何も神に仕立てなくても、キリストの歩みは十分に素晴しい内容なのですが… 

例えば、マザー・テレサや、最近注目されてきた直江兼続や坂本龍馬などは、神ではなくても、「こんな考え方のできる人間になりたい」、「こんな時、彼(彼女)ならどう考えて切り抜けるのだろう」などと憧れを抱いて手本にすることはできるのですから…

神道にしても、キリスト教にしても、神化した価値観の化けの皮が剥がれいくと、信仰者としてはシラけてしまいがちですが、私の場合は、そうではありません。

例えば、カトリックのロザリオにおいては、やり方に大きく左右されるのですが、私のやり方では、スピリチュアルな世界とリンクすることができます。黙想課題の裏にある真理に触れることができるばかりか、今日、何をすべきか、何を慎むべきか、といった導きを得ることもできるのです。

私は、二十数年振りに、毎日欠かさず、修道院の朝ミサ出席にチャレンジしているのですが、ミサでの御言葉を思い巡らすと、ロザリオ同様、言葉の裏側に隠されている真理に触れることができるばかりか、今日、何をするべきか、何を慎むべきか、といった実に具体的な導きを得ることができます。これまでの人生を振り返ってみて、二十数年前のあの頃は、私の人生で一番輝いていた幸福な時代でもありました。

同様、神道関連の「高島暦」や、「日本の神様カード」(タロットカードのようなもの)、御神籤などを用いることは、「日々のテーマ」、「月間のテーマ」、「年間のテーマ」、「人生のテーマ」といった、導きが得られ、神意に生きる目安となっています。

つまり、こういったものは、「神と交流するツール」でもあるわけです。私は、そちらの方面に、大きな価値観を持つことができました。正しさが怪しい宗教そのものにではなく、その宗教から派生したものとはいえ、宗教を超えた世界へと誘ってくれるツールの方に重要性を感じられるようになったわけです。そう考えると、「正しい宗教」などという考え方など、どうでも良くなってくるわけです。非難し合うことなどなくなってきます。

結局、何を言いたいかというと、「正しい宗教」という視点で追求しても、残念ながら失望するしかないのですが、こういった「スピリチュアルな霊界との通信ツール」を持つのなら、失望するのではなく、より良い自分を引き出すものになっていくように思うわけです。

多くの信仰者には、そういった失望感を無意識のうちに避けようとして、他の価値観に一切目を向けずに、一つの狭い価値観に留まろうする傾向が見られます。そういった考え方も、平穏に生きるための一つの知恵とも考えられるのですが、私としては、「平穏よりも進化」が何より大切と考えており、最先端の科学のエッセンスにも目を向けて、より進化した信仰に生きていきたいと思います。どんなに平穏に生きたいと思っても、思いもしない試練に出会うのが人生でもあるからです。

また、人生は一度きりのものではないと考えています。もし、私が5万年前に、その一度きりの人生を歩んだとしたのなら、深い学びのできる現在の人生から考えて、あまりに物足りないものといえることでしょう。やはり、魂は、進化していくものであると思えてなりません。私は、死というものは、あくまで一つの章が終わったに過ぎず、次の章を学ばなくてはならないように、魂の進化に終わりがないと思うのです。私たちは、「壮大なる魂の進化」を生きているように思えてならないのです。

私の思い描く「前世観」とは、仏教などにみられる宗教的な考え方とは異なり、長い長い人類の歩みと、その進化に目を向けるならば、誰でも思い描けるような、ごく単純で自然な考え方なのです。

とはいえ、「前世のことなど知らない」と言う人がいて当然です。多くの場合、記憶が消されているのですから、しかし、なぜこの親のところに生まれてきたのか。自分の得意なものや苦手なもの。これまでに出会った人の傾向等を分析し思い巡らしてみると、いろいろ見えてくるものです。夢や、神と交流するツールなども重要な手がかりを示してくれることでしょう。

21世紀の宗教観は、大きく進化していくと信じてやみません。単に伝統を守るといった狭い視点ではなく、より広い視野で物ごとを見つめ、バランスの取れた考え方を身に付けていく方向性へと向かうのではないでしょうか。科学においても、目に見えない世界の解明が進んでいます。

まだまだ、無知で勉強不足を実感しています。これからも、「スピリチュアルな霊界との通信ツール」を生かしながら、書道のスキルを磨き、声楽のスキルを磨き、子どもたちへの指導法のスキルを磨き、歴史や古典に学び、さらには人文科学等の最新の学問も大いに学び、「壮大な魂の進化」を念頭に大いに精進していきたいです。


今日は、阪神・淡路大震災から15年。今日も早起きできたので、5時46分、NHKテレビで追悼式の様子を見ながら黙祷を捧げました。あの頃の私は、寒さに凍えながら働く肉体労働者でした。

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2009年12月14日

口で話すことでは人を変えることは難しい

確か『金剛般若経』という仏教経典の一番終わりの部分に、弟子がお釈迦様に、「学んだ悟りをいかに人々に伝えたら良いのですか」と尋ねたのに対し、『ただ悟りに生きるだけで何も伝える必要はない」と答えられていたと記憶しています。これこそ、まさに真実なのではないかと最近、強く感じるようになりました。

私は、最近、コンビニで、日本の神々についてまとめられた本を買い求めたのですが、この本は、誰に勧められたのでもなく、たまたまコンビニで買い物をしていたら、ふと本のタイトルが目に入り、とても興味深く感じられて、手にとって見たら、欲しいと思ったので買ったまでです。

何を言いたいのかというと、悟りとは、口で伝えることは難しいことで、求めていない人に、熱心に何十年勧め続けたとしてもなかなか伝わるものではありません。私の両親は、私が、かれこれ25年以上も、熱心にキリスト教を伝えようとしたのですが、全く関心を示してはくれませんでした。父が、異常なほどにキリスト教を嫌うので、母も父に気遣って合わせているようでもあります。

ですから、今回私が、コンビニで手に取った本のように、人の目に付くところに置いてあるのなら、求める人がきっと手に取る筈なのです。これは、最も自然な伝道方法なのではないかと感じられました。

私は、本を出せる力はまだ得られていませんが、インターネットで多くの人に伝えたいことを紹介することならできます。また、うちの書道塾では11月を「道徳月間」としていますが、集まってくる子供たちに、そういったさわりの部分だけでも話してみて、あくまで興味を持った子だけに、その子が消化できるレベルに噛み砕いて話すこともできることでしょう。もちろん、キリスト教を求める子には、感動的なキリストとの出会いをさせてあげたいです。仏教のチャンネル、神道のチャンネル、そして、少々無神論的でもある科学的なチャンネルも用意しています。

私はクリスチャンではありますが、輪廻転生を理解できるチャンネルも持っているので、今世で全ての人が悟りを得る必要はないとも考えています。ただ、悟りを求める人に優れた悟りを繋いでいける人間でありたいと思います。

とはいえ、何より一番優れていることは、お釈迦様の言われるように、他者を変えることではなく、悟りにひたすら生きることのみにあるのかもしれません。そのことで霊格が上がり、今世はできなくても、今世で得たことが材料となり、来世では、素晴らしい指導的な働きができるかもしれないからです。
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2009年12月12日

古事記の神々と、クリスチャンである私

私の守り神でもある月読命(つくよみのみこと)は、素晴しい潜在能力を秘めながらも、病弱かつ自虐的な側面を持つと言われています。月読命の下には系図が続いていないことから、孤独な性質もあるのかもしれません。月読命が心を寄せ憧れる姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)には、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)に邪魔をされて、かなか交流できないのです。そこで、月読命の心の支えになる神は、年の離れた豊受比売神(とようけひめのかみ)となるわけです。これは、「古事記」の神々の世界と自分とをリンクさせて考えた、かなりスピリチュアルな話ではあります。

私は、現在、過呼吸症候群の発作に苦しんでいます。これは、母の超神経質な性格に日々振り回されているうちに、つい脅迫神経症となってしまったようです。そのことについては、何年も前から、かれこれ数百回に渡り母に相談して協力を求めたのですが、誠意をもって謝られても1日も経たずに同じことをくり返されてしまうので意味がありません。発作が起ると、呼吸が苦しくなり、血圧が異常に上がり、酷い吐き気が起り、不整脈となるので、何もできなくなります。そのことで、私の自虐的性質は強まり、どんどん健康は損ねていくのです。

今年の2月、母が心臓の手術をしたことをきっかけに、母の書道塾を受け継ぎ、子どもたちと接し、4月から近所のお百姓さんから畑を借りて農業をするようになってからは、豊受比売神が降りてきている実感があり、それまで紫一色の心のオーラに緑のオーラが加わってきて、一時、とても元気になりました。

ところが、ここ数か月、健康状態が酷い状態で、一時命の危機となる状態にも陥りました。母は、私の健康がとても心配と言いながら、何かと私の心を脅迫してきます。残念ながら、このことから逃れる方法は見つかりません。逃げるのではなく、克服するしか道がないようです。ただ、このままでは、もう私の命は長くはないと感じています。そうなると、やはり豊受比売神からのパワーがとても必要になってきます。大地の恵、つまり大地からとれるものを大切にいただき、あまり肉は食べないようにしようと思います。社会の男性的な価値観には染まらずに、女性的なセンスを持つこともポイントかもしれません。

話は、ちょっと変な方向になりますが、昨夜、妻と一緒に、私が20代に聞いていた松田聖子のレコードを聴きました。私も妻も、サラ・ブライトマンや、カーティア・リッチャレッリ、中丸三千繪、佐藤しのぶ、鮫島有美子など、本格的なソプラノ歌手の歌声に聴き慣れているものですから、昔のアイドル歌手の歌唱に、さぞかしがっかりするのかと思ったら、お互いに感動して聴き入ってしまいました。妻が、「彼女の歌声には魔力を感じる」と感想を述べたことに始まり、いろいろ話し合っている内に、お互いに彼女の歌声の中に、クレオパトラの前世が細胞分裂したようなものを感じられるようになっていきました。

確か、ケネディー大統領のバースディ・パーティのセレモニーで、当時、世界最高の評価を得ていたソプラノ歌手のマリア・カラスの歌唱が、セクシーな魅力を売り物にしていた女優マリリン・モンローの歌唱に、完全に会場の人気をさらわれてしまったという逸話を思い出しました。つまり、松田聖子は、マリア・カラスではなく、マリリン・モンローのような魅力、いや魔力を持っているように感じられたのです。

松田聖子と同じものを感じる歌手に、安室奈美恵もいるのだけど、松田聖子には、さらにマリー・アントワネットの前世が細胞分裂したものまでも感じられたのです。この点は、安室奈美恵には感じられません。「松田聖子、恐るべし…」

でも、クレオパトラやマリー・アントワネット、そしてマリリン・モンローにしても、最悪の死に方をしています。その点で考えると、羨ましい存在とはいえないのかもしれません。私と同い年の松田聖子さんには、ぜひ、人気絶頂の中で引退したアイドル歌手の山口百恵さんのような、信仰的なチャンネルを持って欲しいと願いたいです。

人気テレビ番組の「オーラの泉」は、残念ながら終わってしまったけど、その中で江原啓之さんが「前世とは、その人が生きるための材料のようなもの」と話されていました。例えば。前世に歌い手をやっていた人は、消された記憶の裏側に眠っている前世で歌い手だった頃の記憶を引き出すことができるので、誰よりも成功しやすい。でも、そういった材料を持ち合わせていない人は、どんなに努力しても、なかなか成功できないということです。そうなると、前世という、どんな材料を持っているか知っている人とそうでない人では、大きく差が出てしまうように思うのです。生活の糧を得るのは、前世の材料を生かして行い、本当に自分がやりたいことは、趣味の方で来世に繋いでいく…。私は、研究することが好きなので、前世は、研究者だったのかもしれません。評価は得てはいるものの、歌の方は、前世の材料は、ちょぴり足りないような気がします。

と書いている私は、カトリックのクリスチャンです。プロテスタント時代を含むと、かれこれ25年以上になります。自分で言うのは何ですが、聖書にはかなり詳しいです。そういう私ですが、こういったスピリチュアルな心のチャンネルも持ち合わせているわけです。キリスト教には、前世という考え方はありません。この二つの考え方は、一緒にできないので、別々に考えるようにしています。また、人間の死をあくまで科学的に理解する無神論的視点も持ち合わせています。そして、それぞれの視点を融合したものの見方をすることもできます。

どうして、日本の宗教に心を持ったかというと、現在習っている歌の先生の影響が発端ではありますが、人類が言葉を発明し、宗教を持つようになる以前の、原始人たちの信仰に近いものに、知恵に走らぬ人間の驕りのないピュアな信仰があると気が付いたことにあります。

ただ、私は、キリスト教を通して、愛の素晴しさを知りました。愛を学ぶことにおいて、キリスト教を超える価値観を他に知りません。なので、私にとっては、このチャンネルも、一生大切にしたい心のチャンネルなのです。
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2009年07月12日

神から名前を呼ばれています

カトリック新聞を読んで知っている人もいると思いますが、先月、司教総会が行われました。各教区から一人ずつ司祭が招かれて、これからの教会についての話し合いが行われました。

今の教会の現状、信徒の高齢化、司祭志願者が少ないことなど、嘆きの声が多く聞かれました。

しかし、こういったことは、別に教会の危機ではないと受け止めています。

本当の教会の危機とは、「キリスト者になってよかった」という証。そういった証に力がないということこそが危機なのではないでしょうか。


昨年は、188殉教者の列福式がありました。記録によると実際は、5千人、さらに2万5千人の殉教者がいたと言われています。

でも、彼らは追い詰められて殺されたわけではありません。あなたは信仰を捨てられますかという問いに、「いいえ」と答えたことによって殺されることになったのです。

自分の信仰を宣言し殺された人を殉教者と呼びます。

当時の信者さんは、近くに教会があったわけではありません。神父様に、または先輩のクリスチャンに会えるだけでも数ヶ月に一度のことだったでしょう。

現在の教会の環境からみると、本当に恵まれていない状態だったと思います。

それなのに、あれだけの信仰が育まれたのはどうしてなのでしょう。

あれがないから。

これがないから。

教会に必要と思えることが不足していることが、本当に教会の危機に繋がることといえるのでしょうか。

今日の福音にもありますが、

イエスは福音宣教に向かう弟子たちに、杖一本のほか何も持って行くな。金も持たずに行け。というみ言葉が心に響きます。

旧約の話になりますが、ギデオンが、数万人の敵の軍と戦わなくてはならないとき、神は軍の人数を大幅に絞られて、わずか300人で戦って勝利したとあります。

数万人の軍勢に対し、わずか300人となると、勝ったのは自分たちの力ではなく、神の業ということになります。戦争というデリケートな問題を信仰的にどう受け止めるべきかということは、ここでは時間がないので割愛します。


神は、すべの人を愛し、すべての人を救う方法として、あなたの名前を呼ばれています。

神:「○○さん」

あなた:「私ですか?」「私には、何の力も持っていません。どうして、私なのですか?」


聖母マリアもそうでした。

しかし、マリアは、「はい」と答えて従いました。


なぜ、私なのでしょう? それは、わかりません。神の選びなのですから。


このことを考える時、数年前のニュースが思い出されます。

イスラエルとパレスチナとの紛争。ガザ地区でのこと。傷ついた子供たちを助けるためのボランティアをしているアメリカ人女性が、「やめてください。傷ついた子供たちがいます。」と戦車の前に両手を開いて立ちました。

しかし、実にあっけなく戦車にひき殺されてしまいました。


私は、彼女の前にはイエスがいたと信じています。戦車の前に飛び出したのはイエスであり、彼女は「はい」とその後に従ったのだと思うのです。

彼女の流した血は、イエスの十字架の血と結ばれて、今も生き続けていると信じています。


私は、イエスに「はい」と従う者となりたい。

そして、このミサでも、皆さん一人一人が、イエスから名前を呼ばれています。

イエスの証人として生きるため、「はい」と返事をして従っていきましょう。


(カトリック大阪大司教区 松浦悟郎補佐司教の説教より 2009年7月12日 盛岡・カトリック四ツ家教会 主日ミサ)
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2009年07月02日

誰かに喜んでもらうこと

昨日の瞑想会を思い巡らしていて、少し疑問を感じることがありました。

確かに、3年以上のトレーニングを積むことで、優れた瞑想ができるようになるかもしれません。

そのことで、健康を取り戻し、安定した精神を養えるかもしれません。

しかし、優れた精神を築いた人と、まだトレーニングする前の人とに、優劣が生じるとは思えないのです。

私は、悟りなんて、たいしたものではないと考えています。その場、その場ではとても必要なものでも、古くなるとウジが湧き悪臭を放つようなものと同じで、使い終えたら片っ端から捨て去るべきものであるとさえ思います。

大怪我をして、身体の自由を失っている人が、身体の自由を取り戻すために、猛烈なリハビリをするのとも似ています。

つまり、あくまで自分のためなんです。

私の尊敬する歌の先生のマネージャーさんは、多分、本人は意識しないで話されていることだとは思うのですが、私が何かを克服した話をしてもあまり褒めてくれないのに、人を喜ばせたという話となると、とても褒めてくださいます。そのことがふと心をよぎりました。

誰かに喜んでもらうこと…

できる人、できない人、悟れる人、悟れない人。常識的な人、変人といえる人…

みーんな仲間と考えて、とにかく出会う人に喜んでもらうことをしよう。

そっちのチャンネルも必要なのではないかと思いました。

残念ながら、どんなに努力しても、喜んでくれる人ばかりとは限らない。妬みひがみから、敵意を振りかざしてくる人もいることだろう。その場合、マイナスの方向に引っ張られないように注意して、明るい気持ちをキープしたい。

私は、歌うことで人を喜ばせられるかもしれない。書道や勉強を教えることを通して、子どもたちを喜ばせられるかもしれない。

自分の名誉のためではなく、みんなの幸せのために…

瞑想の方は、自分の心と身体の健康のために、これからも続けようと思います。
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2009年07月01日

瞑想会

今日は、マルコ神父による「東洋の瞑想とキリスト者の祈り ザダナ」の瞑想会に参加しました。

始めの10分間の沈黙では、心に飛び込んでくる思考を客観視することができました。

2分間の沈黙を経て、最後の5分間の沈黙では、音叉のAの音をイメージし、同時に紫色をイメージしてみました。すると、前のような思考を沈めることができました。これは、いけるかもしれない…

この講習会の究極の目的は、普段、思考の奴隷になっている状態から、瞑想により思考の働きを止めることにより、神とコンタクトを取れる状態に持っていくことにあるようです。問題は、思考の働きを止めたとき、神とは反対の力であるサタンとコンタクトを取る危険性もあるので、時間をかけて訓練をする必要があるとのことでした。

思考力によるものは、良かれと思ったことでも、脳と身体に悪い方向のプログラムになりやすく、神秘体験的な霊的の働きは、脳と身体に良い方向のプログラムになりやすい傾向があるとのこと。現在、胸や指先の痺れで苦しんでいる私には、希望のあるお話でもありました。

神父様のお話によると、キリストの精神に生きるには、仏教やヨガなどの東洋の瞑想が役に立ってくるとのことで、これまでのヨーロッパの伝統でやってきたキリスト教のままだと時代から取り残されてしまう方向性に向かっています。神学など知識を中心としてきたキリスト教から、真理に基づく神秘体験によるキリスト教へと変えていかないと、科学の進んだ現代人には、魅力に乏しいものとなってしまうのは当然と言えば当然なのかもしれません。

反対に、仏教の側からキリストの精神を学ぶことは、仏教的悟りを深めることになるように思います。

当時のキリストの弟子たちは理解力に不足しており、キリストは、たとえ話で話さなければならなかったと聖書には書いてあります。しかし、たとえ話ではない崇高な真理を知るためのヒントも聖書には書かれています。それは、聖霊の力を得ることにあります。

近年、物理界において見えない世界が解明されつつあります。そうなると科学は、キリストの教えを実証するべきものとなりつつあるのに、伝統的キリスト教は、古い考え方にしがみついていて、そこに目を向けていないのです。

私は、聖書の教えに、東洋の瞑想を取り入れ、さらに科学的視点でもって、キリストの精神に生きていきたいものだと、ふと思い巡らしていました。

キリストの弟子たちが難しいと思えた内容ゆえ、参加者の大半が、「難しい」と口にしていたのも印象的でした。



続き ⇒ http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/122647848.html#comment
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月31日

宗教を超えて考えられる者でありたい

新約聖書によると、キリストの弟子達が理解力に不足していたゆえに、たとえ話で話した他、教えたいことの一部しか教えられなかったとあります。

では、聖書には書いていない、さらに深い真理はどうして知ることができるかというと、聖霊の導きにより、ことごとく悟ることができるとあります。

キリストが昇天される際に、福音宣教の使命を与えられた弟子たちは、はじめ迫害を恐れ部屋に隠れて活動していたのですが、祈り愛の輪の中に聖霊が下り、勇気を与えられて外に出て宣教する者となりました。

その勇気を与えてくれたのは聖霊です。

私は、マザー・テレサの歩みに聖霊の働きが強く感じられます。

彼女は、ただの修道女ではありませんでした。インドで倒れている病者を救おうと勇気を持って活動を始めたのですが、はじめ教会は彼女の活動を快くは思いませんでした。しかしマザーは、インドにおいて、何の伝もなく、お金も持っていないのにもかかわらず、次々と協力者を得ていきました。それは、まさに奇跡なのだと思います。

それは、教会の伝統に阻まれただけではありませんでした。インドの社会の価値観にも阻まれました。はじめ、現地の人たちからマザーの活動は認められませんでした。しかし、マザーの宗教を超えた愛の活動は、やがてインド人からも尊敬を向けられるようになっていきました。それは、まさに奇跡なのだと思います。

彼女は、よく祈る人でした。そして、単にマザーの働きではなく、まさに神の力によって人々が動かされ、良い歩みへと導かれていったのでした。それは、聖霊の働きなのだと私は受け止めています。

自分は世の中の役に立てるような才能がないけど、自分のわずかな給料の一部をマザーの活動に使ってもらうことで、マザーの役に立ちたいと、マザーの活動に募金することを心の支えにしてきた、という人も人も少なくないと思います。

独身でないとマザーのような活動は難しいと思います。あるお母さんは、ボランティア活動のため世界中を駆け回っているのですが、難民の子ともたちからは「素敵なお母さん」と慕われても、実の子供たちからは、「お母さんなんて大嫌い」と言われ家庭がメチャメチャでした。そこには大きな矛盾が感じられました。

クリスチャンといっても、教会のしがらみに縛られている人が多くいると感じられます。キリストの教えそのものというよりも、伝統的に築かれた教会の教えに縛られていて、愛に限界が生じているのです。他の宗教の人を罪人と決めつけ、見下げている人たちもいます。

また、いわゆる会社人間は、会社の価値観に縛られて、愛に限界が生じているように感じられます。できない社員を見下げ、何でも自分の実力だけで押し通そうとするため、祈ることはありません。神の力もそこには存在しません。成功している時は、有頂天になりますが、大きなミスをしたり、病気になったりして会社からの評価が下がると、逆に激しく落ち込みます。

異端的な宗教とレッテルを貼られ批判されている宗教の信者さんなのですが、、神の愛がしっかり働いている素晴らしい歩みをしていて、私が心から尊敬を寄せている人がいます。そうなると、どこの宗教が正しいとか、そんなこと関係ないような気がします。それぞれの宗教で、愛に生きていればそれでいいと思うのです。聖霊の働き、そして真理は人を自由にします。愛は宗教を超えるのです。

教会で奉仕する時間など全く持てないし…

このところ、自分の生きるスタンスをどう持とうかと悩んでいました。クリスチャンとして真面目に生きつつも、歴史によって蓄積されてきた教会の伝統文化に縛られず、成功にばかりに傾きすぎる社会の価値観にも縛られず、さらには宗教を超えて考えられる者でありたいと思います。特に日本人ならではのセンスは失いたくないです。

マザーは、係わった誇り高きインド人に洗礼を授けることをしなかったように、私も日本人の誇りを大切に、聖霊の導きに生きる者になりたいです。そんなことでは、教会が滅びるのでは… だいじょうぶ、神の働きを私は信じています。

現在、子供たちと接する仕事に熱中していますが、宗教の色眼鏡で見ないで、受け持った全ての子供たち、それぞれの持つ才能を引き出せる良き大人でありたいと思います。

こんなことを考えていたら、「結果を出そうと焦る必要なんて無い」と思えてきて、心が少し楽になりました。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月28日

キリスト教一致祈祷会に出席して

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昨日、カトリックやプロテスタントという宗派を超えた祈祷会に出席する機会を得ました。

場所は、日本基督教団 盛岡松園教会で、19時から、その祈祷集会が始まりました。司牧された牧師さんは女性の方でしたが、ご説教も含め、感動的な礼拝へと導いてくださいました。終了後、私は黙っていられずに、牧師さんにその感動を伝えました。

盛岡市内のほとんどの教会から、運動に関心のある方が集まり、共にお祈りしました。1教会に集まる小さな集会ではなく、いつの日か、大きなホールに集まるような集会へと発展できるよう、これからも係わっていきたいと思いました。

牧師さんの素敵な説教からのメモを下記に記します。残念ながら、私のつたない文章では、牧師さんの熱いハートまでは伝えることはできません。礼拝堂内は、彼女の美しい心から発せられる神聖なるオーラに包まれていました。


エゼキエル書には、分裂からの回復の預言が書いてあります…

新しいイスラエル、2本の木が1本の木になるのは、人間の力ではなく、主ご自身によるものです。福音の恵みの力、十字架の贖いによるものなのです。

そのために重要な2つのこと。民の清めと、平和の契約を結ぶこと。そして、私たち兄弟姉妹が、民族、国籍、伝統、身分の違いを超えて、神の許に一致することを求めることによって実現するものなのです。

ヨハネの福音書には、キリスト者が一つになることは、この世に対する効果的形です。「私が彼らの内におり、あなたがたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と書いてあります。

悲しいことに、私たちには、同じ聖書を学ぶ者同士で、互いにいがみあってきた悲しいた歴史があります。昨年末においても、イスラエルにおいて、祈りあうのでなく、互いの違いを受け入れることができずに、感情をむき出しにして殴りあう聖職者の姿がテレビで放映されました。これ実には悲しむべきことです。

これは、私たちの(政治的な)力、そして努力では、乗り越えられる問題ではありません人間の力ではなく、主ご自身による一致なのです。

ですから、すべての人が神の許に一つになるように祈り合いましょう。この一致とは、祈り合いによって実現するものなのです。

互いに愛し合うことで実現する一致なのです。

悪に勝利する道は、他にありません。神様と愛に従順に従うことによる一致なのです。

この世は決して安全な場所ではありません。しかし、互いに励まし合い、愛し合い、厳しい苦難を乗り越えて、その使命に生きる時、私たちは主に聖別された者となれるのです。

神様に私たち自身を捧げて生きていきましょう。


(ここからは私の文章です)

初代教会においては、キリストが亡くなって、わずか50年も経ずにクリスチャンたちの間に亀裂が起こっていたようです。最も遅く書かれたと言われる『ヨハネの福音書』や『ヨハネの手紙』(使徒ヨハネの弟子の長老ヨハネによる)を読むと、その嘆きが伝わってきます。古い方の福音書には見られない「互いに愛し合いましょう」という呼びかけのフレーズが随所に見られます。

私たちの教会の中でも、派閥というかお友達?グループのようなものができており、互いにいがみあっているところがあります。そこに人間の弱さが感じられてなりません。聖書を読んでキリスト教に感銘を受けた人が、教会にやってきてつまずくことも少なくないようです。そういった人間関係に失望して教会を離れていく人が絶えないのも事実です。

このことは、宗派を超えて、あらゆる教会が抱える問題であると思います。自由意志における大きな課題ともいえます。

信仰による自由を掲げるキリスト教は、初代教会以来、常にそういった危機と背中合わせで続いてきたように思います。ですから、教会内の空気がマンネリ化しないよう、今回のような集まりは大切なのではないかと感じられました。

互いの違いを認め合い、共通の福音に立ち返り、共に真の一致を願い祈り合う時、真のキリストの教えに近づけるように思うのです。

キリストの教えとは、口で語るだけのものではありません。そのことを行動に移し、愛を伝えることにあります。つまり、キリスト教の枠をも超えて、全ての人と愛の絆を築くことが重要なのです。

互いの違いを認め合うことは、単にキリスト教の宗派にとどまらず、全ての宗教、さらには全ての人が持つ人生哲学も含めて大切にするべき問題です。

私の場合、親戚付き合いを大切にするためにも(自分の魂のルーツを知るためにも)、仏教の檀家を守る者としての責任もあります。幸い、仏教の教えとキリスト教の教えはリンクしやすい面があるので尊重し合えるものと考えています。

神や仏を受け入れられない人でも、私たち身体の中にもあり、宇宙全体にも及ぶ、完全なる秩序を与えている確かなるもの(Something Great)の存在は否定することが難しいと思います。人間、誰もが、それぞれ違いつつも良心へのチャンネルを持っているのです。それを批判したり否定することは、人類全体の成長を妨げるものであると思うのです。

私は、誇張された独善的な正義等に惑わされず、宗教の枠を超えて、人々を愛の絆で結ぶための活動ができるような人間へと成長していきたいと思います。

人類が神の愛により一致することを考えない限り、利益を優先する考え方を捨て、文明をある程度捨てない限り、私たちがこの地球で生きられる限界がすぐそこまで来ているように思います。

私は、人類滅亡のシナリオから脱する奇跡を信じたいです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 15:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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