2015年07月03日

死は怖くない 心(マインド)と魂(ソウル)の違いを知ること

死の不安を克服することが、人が生きていくうえで重要な要素であり教育でなされるべき課題の一つです。

心(マインド)は、失われるものですが、魂(ソウル)は失われないものです。

例えば、脳に損傷のあるような大けがをした場合、脳の機能を激しく失い、その人は人格すら失うかもしれません。つまり、心は体と密接な関係があります。

しかし、魂は体とは別のところで機能しており、仮に脳に激しい損傷を負って人格を失ったとしても、失うことはありません。

ですから、医学が発達し、手術によって脳の機能が完全に取り戻せるのなら、その人は人格を取り戻すことができます。魂は失われていなかったゆえ、そこから取り戻すことができるわけです。その際、人格を失っていた、つまりは心と魂の交流が止まっていた時の記憶は無いことでしょう。

そう考えると、体あってこその心ですし、心と体の両方を失うことを死というわけです。

つまり、死んだからといって魂を失うわけではありません。

ですから大切なことは、体を大切にしなければ、心を健全に保つことはできないということです。そして、心を健全に保つことで、この世に生まれ、この世での体験を通して良い学びができるわけです。これは、魂のみの状態ではできなかった素晴らしい学びなのです。

さて次に、この失われることのない魂(ソウル)とは何かということになってきます。

一度きりの人生と考えるキリスト教と、何度も生まれ変わると考える仏教では、魂の意味合いが若干変わってきます。

ここで、どちらが正しいかと考えては公平さに欠けてしまいます。ですから、どちらにも共通して教えていることとは何かと考えると、心の他に魂の存在があることを教えているということです。永遠の命というのは、ズバリ魂を指しているわけです。

こうなると、人生に行き詰ったから自殺したいと考えることは良くないことであるということになります。

自殺したい人は、この世の現実から逃げたい、自分がいなくなった方が楽だと考えがちです。

しかし、死んだからといって魂は失われることがありません。この世での学びの時は失われますが、魂は霊界で、その続きの歩みをしなくてはなりません。

霊界とは、神のいる高い次元もあれば、神から遠く離れた低い次元もあると考えられています。私は神に近い次元を「天国」、神から遠い次元を「地獄」とイメージしています。これはあくまで「わからない」の世界ゆえ、キリスト教の考え方、仏教の考え方、あるいは別の考え方、どれにおいてもこれが正しいと決めつけることはできません。

ただ、自殺をした人が、霊界に行った際、果たしてどのような次元に行くのかと考えると、誰もが良い次元に行けるとは考えにくいことでしょう。

私はクリスチャン(キリスト教信者)なのですが、これまでに多くのキリスト教バッシングの記事を読んできました。そして何度となく、心がキリスト教から離れそうになりましたが、私はキリスト教による奇跡体験が多いので踏みとどまることができました。

ただ最近になってはっきりしてきたことがあります。キリストの教え、特に『新約聖書』の中の4つの福音書の教えとは、賢者への教えではなく、教育の乏しいものを含む万民への教えであること。そして、この4つの福音書の教えのみで十分であり、この教えに生きるなら、間違いのない生き方ができるということです。

どんなにキリスト教が間違っているとか、聖書はねつ造された書であると言われようとも、聖書は生きた書であり、これまで多くの人々に奇跡を与え、神の証を与えてきたことだけは事実なのです。

とはいえ私は、キリスト教のみが正しいとは考えていません。あくまで天国へ行くための方法の一つであると考えています。何が正しいかと一生迷って生きるより、足元を固めて堅実に生きる方が優れていると考えています。ですから、仏教信仰で生きることも同じように優れた道であると思うのです。

もちろんご家庭で仏教教育をしているとか、他の宗教による教育をしている場合においては、そちらを尊重し全力で協力していきたいと考えています。それゆえ親御さんとの連携がとても重要であり、情報を提供してもらわなくては良い方向性が得られません。その情報を基に、お預かりしたお子さんの良心を向上させる教育を進めていきます。私の塾では、グローバルな視野を持てる子供に育てたいので、世界にはいろいろな気候風土があり、そこに根差した文化があり、そして異なる宗教があることも伝えていきたいです。

ただ、特別宗教教育をしていないご家庭のお子さんに関しては、私自身が数多くの奇跡を体験し、証を持つキリスト教による教育を学ばせたいと考えています。もちろん、キリスト教にのみ偏った視野の狭い教育にはしないつもりです。ただ、何が正しいかと迷わせてしまうと意味がないので、子供たちが消化できるレベルで基盤づくりから取り組んでいきたいと思います。

宗教が何であれ、良心を保つためのしっかりとした基盤を持っている子は決して迷いません。基盤さえしっかりしていれば、多様な思想や文化を受け入れることも可能となります。世界中のいかなる人とも上手く交流できる術も得られることでしょう。ですから基盤づくりが重要なのです。教育現場には、宗教批判を持ち込まないのが基本であり、そこを守れない場合は、残念ながらやめてもらうしかありません。批判に関しては、親の言葉に原因があるようです。

基盤を持っていない人は、迷ってばかり、または批判してばかりで考え方が定まらずふらふらしているゆえ、信念を持った生き方ができません。これでは何をやっても中途半端になってしまいます。

そしてその基盤は子供時代に築かれるべきものです。この基盤は学校教育とは別物ゆえ、本来親から子に伝えるべきものです。中には、偉人伝など書物から得る子もいることでしょう。いずれにせよ、私はそのお手伝いをする教育を展開しています。


生きながら心を失わないような生き方をしましょう。

心を失わないように、さらに心を育てられるように、体を大切にしましょう。

そして死んでも、心と一体である魂は失われることはありません。

死は、新らたなステージに移行することを意味します。

そこは神と共に生きられるステージです。

私たちが、頑張って生きなくてはならないのはそのためなのです。

頑張って生きている人にとって、死は決して怖いことではないのです。

ですから、頑張って生きられるように心身を鍛えましょう。

「頑張れること」ができれば、どんなに不治の病に侵されようと、身体に重度の障害があろうとも、心は健全に機能しているという証です。魂が喜ぶ学びをしていることになります。

しかし「頑張れること」ができなければ、心にとっても魂にとっても、実に残念な状態にあると言わざるを得ません。

映画「マザー・テレサ」の終わりの方で、年老いて行くマザー・テレサに周囲の人々が「休息を…」と言うのに対し、マザーはニッコリ笑い、「やがて私には永遠の休息が待っていますから…」と答えていたシーンがとても印象的でした。

「頑張れること」の究極の姿がそこにありました。

「頑張れること」は素晴らしいことであり、だからお互いに(ほぼ無意識の内に)「頑張ってね」と励まし合っているのだと思います。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月25日

本当の自分に出会えたなら

あなたは本当の自分に出会っていますか?

私ってなんてバカなんだろう。

私ってなんてちっぽけな存在なのだろう。

そのように考えて落ち込んだことはありませんか?

そのように考えている人は、まだ本当の自分に会っていない人です。

私たちの肉体は、父方の血脈と、母方の血脈によってつくられた肉体によってできています。

つまり、血脈による身体と、脳が、ある意味、私たちに限界を与えているのです。

何であの人は、すぐに覚えられるのに、自分は何度やっても覚えられないのだろう…

何であの人は、すぐに応用できるのに、自分は単純なことすらまともにできないのだろう…

実は、こういったことは、血脈による肉体があなたに与えている限界が起こしていることなのです。

本当のあなたは、霊的な存在で、そこに居るあなたは長い長い生命の進化の歴史の中で培ったすべての能力を持った存在なのです。

時間にゆとりを作り、黙想する時間を持った方が良いのは、そこにあります。

より高い次元にアクセスし、まずは本当の自分に出会う必要があります。

宇宙の法則上、地上での修業を続ける上で、そのことを完全に引き出すことはできないのですが、感じることは十分に可能です。

自分の守護をしてくれる霊によって、たくさんヒントを与えてもらえることでしょう。

そして、まだまだ自分には、大きな可能性があることを感じられるに違いありません。

この肉体を鍛え、脳を鍛え、その能力を十二分に発揮できるようにすることが重要なのです。

もっとも重要なことは、これまでの進化の歴史の中では体験できなかった新たな体験をし、新たなチャレンジにより、これまで未体験だった壁を乗り越えることに意義があるのです。

得意なことばかりやっていては、無駄に時間を費やしているに過ぎないのです。

困難は、人を鍛えます。

困難は、奇跡を体験するためにあります。

奇跡体験は、魂の進化のために通らなくてはならない過程なのです。

肉体的に能力的にハンディがあるということは、そういう意味では大きな神の祝福です。

前世の行いが悪かったわけでも、先祖のせいでもありません。

神の世界に触れ合うために、とても必要なことであると知るべきなのです。

ですから、できない自分から逃げてはいけません。

本当の自分に出会えたなら、きっとそんな厳しい現実に立ち向かっていける勇者になれることでしょう。




P.S.
例えば、超頭の良かった人が60歳過ぎて、不幸にもアルツハイマー病になったとします。彼は、それまで築いてきた知識をどんどん失い、家族の名前すらわからなくなってしまいました。それは現実なのですが、それは彼の脳が故障してしまい魂からの受信ができなくなってしまったことに問題があるわけです。

つまり魂には全く問題はなくても、脳が故障してしまったので、そういった限界ができてしまったといえるのです。もし、発達した医学が、彼の脳を治すことができるなら、また元のように頭の良い彼が復活するわけです。

こう書くと、意味が分かってもらえるのではないでしょうか。本当の自分は身体や脳にあるのではなく、魂の方にあるという考え方です。

この人が、その後死んで、霊界に行ったなら、本当の自分に戻ることができます。しかし、霊界ではさらなる進化をするための修業はできません。それで、新たな自己開発を兼ねて新しい生命に生まれ変わってくるわけです。

そう考えると、恵まれた環境に生まれてきたから優れていて、悪い環境に生まれてきたから劣っているとは言い切れなくなってきます。なぜなら、困難を克服することこそが、魂の進化に必要なことだからです。

釈迦もキリストも、当時の差別的宗教観にあって、輪廻転生についてはあえて外して教えるしかありませんでした。当時の教育レベルはとても低かったからです。しかし、人類は教育的な環境を獲得し、そういった概念を差別的にではなく平等視できる高い次元でとらえられるようになってきているのです。

とはいえ、こういったことも「わからないこと」には違いありません。わからないことなのに、わかったと決めつけては科学の原則に反します。「ここまでは、何となく理解できたけど、ここのところはまだわからないから保留にしよう」で良いのです。きっとこれから解明されていくことと未来を楽しみに待ちましょう。

まず何よりも、自分自身のポテンシャルを最大限に生かせることが重要なので、自分の心に正直に、自分ならではの方法を見つけることが重要なのです。





posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 12:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月24日

幼子信仰

先週、パソコンが2度死んだ。1度目は、あまりのショックに気が狂いそうになって奇声を上げたりもした。2度目は、さらに深刻なトラブルだったが、聖母マリア様の保護を強く感じられたので、割と冷静に対処した。Windows 8.1に対応しておらず、前回、Windowsが立ち上がらなかった筈のバックアップソフトのブータブルディスクを用いてPCシステムを取り戻した。

目に見えない世界の研究をしている筈なのに、いざとなると幼子信仰に戻ってしまう。正しい歴史認識のつもりでキリスト不在説まで唱えていながら、この有様とは情けない。

20代は、この幼子信仰で、次々と奇跡を体験した。東京で自炊生活をしていた故、親と隔離された環境が得られたことが良かったのか、毎日が冒険のようだった。29歳の時に盛岡に帰ってきてからは、親(特に母親)の目が届くことで行動が限定されて冒険の出来ない状態となったたが、逆に精神世界の冒険を好むようになった。現在、両親が要介護者になったこともあるのだが、数年前から、私の冒険スピリットに火がつき、精神世界の冒険が本のことでは済まなくなっていた。

そして、現在、人生で一番の勉強の時を得ている実感がある。しかし、そんな時、何とパソコンの激しいトラブルで、あっけなくも幼子信仰に戻ってしまったのである。このパソコンが動かなくなったら、いくつかの計画が頓挫してしまう可能性があった。教育事業を続けることにも困難を感じてしまった。それだけパソコンに依存していたのだろう。

Windowsが立ち上がらなくなってしまった時、私の頭の中には「絶望」の二文字がよぎった。しかし、20代の時に助けられた聖母様のあの雰囲気に包まれ、「絶望」を「希望」に変えることができたのは不思議である。

あの時、私はルルドのベルナデッタのようにご出現の聖母様に会いたいと心から願った。そんな私が、いつの間にか、聖母様を遠ざけていた。自分はより正しい知識を得ており、幼子信仰には戻ることは決してないと思っていた。

ということで、自分は弱き人間であることを自覚して、長らくご無沙汰していた聖母様へのロザリオの祈りに取り組むようになった。つまり、基本に戻ったことになる。

これからは聖母様のご保護を得ながら、困難の伴う冒険を続けていこうと思う。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月02日

人生の冒険家宣言

新聞配達を辞めたら、何か自由の身になった気分。

かなり無理をしていたからもしれない。

とにかく、盛岡の冬は半端じゃなかった。

その悩みから解放されただけでも精神的にかなり楽になった。

獄中の強制労働ではないのだが、娑婆に出た気分である。

多分、書道を教えている人の中で、私が一番貧乏なのではないかと思う。

コンクールで子どもたちに良い賞を取らせているが、教える本人は自分の作品を出品するお金すら無いのだ。

多分、シュタイナー教育を研究している人の中で、私が一番貧乏ではないかと思う。

事実、シュタイナーの本は全て中古本である。

もちろん、ドイツに勉強に行くことなど全くの無理。

それでも、絶対に諦めない。

自分にはできないとは考えない。

基本的な生活のやりくりに困難を感じつつも、綱渡りのような経済状態であってもスリルを楽しんでさえいる。

超貧乏な筈だが、そんなに貧乏を感じていない。

なぜなら、心の中にすでに成功している自分が描けているからだ。

両親の同時介護に、幼少の頃のトラウマによる根の深い妻の自信喪失から立ち直らせるために、とことん付き合わなくてもいけなかった。

多分、それを無視して進んでいたなら、今頃成功者になっていたかもしれない。

しかし、そこで掴んだ成功よりも、遠回りして掴む成功の方が価値が大きいような気がする。

さて、お金が無いから何もできないという人がいる。

本当にそうだろうか?

お金が無くたって、勉強は出来るはず。

学歴がなくたって、今始めればいいだけの話。

10年で結果は出ないかもしれないけど、20年あればきっと何か結果が出せる筈。

20年もやれば、しっかりした目標を持っている分だけ、一流高校の生徒たちより頭が良くなっている筈。

どうしても克服できない苦手な分野は、得意な人を味方に付ければいいだけの話。

自分の志を支持してくれる仲間を増やせばいいだけの話。

だから、自分はこんなもんって小さくなっていることなんてない。

人生をそのような冒険と考えれば、きっと楽しくなってくる筈。

何がなんでも絶対に諦めてはいけない。

病気や怪我で何かが出来なくなったとしても、別に出来ることがきっとある。

その克服のために膨大な時間が掛かるとしても、チャレンジするだけの値打ちがあるのだ。

この冒険に失敗などありえない。

なぜなら、人生の冒険の終着点には、栄光の人生へのスタート地点が待っているのだから。

とにかく冒険家として、その生涯を終えることに意義があるのだ。

次の自分は、その冒険がもっと板についている筈。

その次の自分は、もっともっと素晴らしい冒険家になっているだろう。

時には、そのいくつもの冒険を振り返る魂の休息の時もあるだろう。

その魂の休息の時に、自分をしっかりと確かめることができるのだ。

そんな、とてつもなく大きなステージを私たちは生きているのである。

人は死んでも、本当は死んではいないのである。

そうであるなら、いっそのこと冒険家になった方が得ではないか。

気づいた今こそ、人は冒険家になれる。

そして、気づいた今から、たとえ残された時間がわずかだとしても、冒険家として死ぬことは十分可能なのである。






posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 04:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月17日

「教育は平和活動」 シュタイナー教育の重要性について

例えば、イエス・キリストは、宗教の上では立派な神です。優れた信仰を持つ者によって、数々の奇跡を起こしているからです。

しかし、科学の上では立派な神には成り得ていません。人類は、まだまだ目に見えない世界の解明がわずかしか得られていないからです。

つまり、科学の上でのイエス・キリストでは、人々の心を支える力には成り得ないわけです。まだまだ信仰による奇跡に頼らなくては、絶望に繋がってしまいやすいことが、この世には多く存在しているからです。このことは、仏陀にも、他の名前の神様にもいえる現実です。

そう言う意味でも、信仰を持つことはとても重要なことではありますが、同時に私たちは科学の目を養い、人類が科学の面からも優れた神を見いだしていけることに積極的に参加していくことが重要なのだと思うのです。21世紀は、そういう世紀になっていくと私は見ています。

「自分は科学者ではないから関係ない」などとは考えてはいけません。あなたの小さな発見が、周りの人に影響を及ぼし、大きな発見に繋がる良い土壌作りに間違いなく役立っていくと考えられるからです。

信仰による奇跡と、科学による奇跡がイコールに近づいていくことにより、宗教を超えた〈真実の神〉が燦然と輝いていくことになるでしょう。そこで人類は、どの神が正しいかなどという議論をすることがなくなります。宗教を楯とした民族紛争も意味がなくなることでしょう。

シュタイナーの挑戦は、そこにあります。
※ ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner、1861.2.27 - 1925.3.30 オーストリア帝国、現在のクロアチア出身の神秘思想家で、アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。

彼が当時、この世に存在するあらゆる宗教を研究し、その上で科学的なエッセンスを多く取り得ているのは信仰と科学の融合を目的としているからです。彼の神秘的な思想は、ある種のファンタジーと言えるものなのかもしれません。その多くは時間の経過とともに古くなり、正しい知識に切り替えていかなくてはならないわけですが、彼のファンタ―ジーには自由があり、その自由がなくては真理を見いだすことは決してできないのです。

つまり、シュタイナーの教えにかぶれてしまい頭ごなしに正しいと考えるのではなく、シュタイナーのように自由な発想によって、その素晴らしい世界を人類に示していこうと考えるべきなのです。

いかにシュタイナーの教えだからと言って、自分にとって違和感を感じる考え方を、無理して取り入れなくてはならないということはありません。違和感を感じることについては、あくまで〈保留〉とし、自分にとって自然に受け入れられる考え方を優先して進めて行った方が、むしろ真理への発見に繋がっていくように思えるからです。自由には批判も含まれます。頭ごなしの批判はいけませんが、逆方向から考える発想があっても良いと思うのです。

大切なことは、間違っていることは訂正し、新しく見いだされたことは付け加えることができるかどうかということです。

宗教の教えは、神の教えと考えているゆえに絶対的であり、それゆえ間違いがあっても訂正できませんし、新しく見いだされたことがあっても付け加えることもできません。このような知識を「絶対的知識」といいます。

しかし、シュタイナーの教えは、間違っていることは訂正し、新しく見いだされたことは付け加えることができる「相対的知識」なので、真理を見出していくための無限の可能性を秘めています。

子どもたちには、中学に入るまでは、残念ながら、このことをストレートに伝えることはできません。親御さんには、塾の通信プリントの記事の中で、伝えることは可能かもしれませんが、あくまで興味を持っている方が対象となります。

子どもたちが中学に入る頃には、こういったことが理解できる学力と、センスを身に着けさせられるよう教育を進めています。そのために当塾では、子どもたちの行動を観察し、「7年周期(7年ごとの人間の発達の段階指針)」、「四つの気質(憂鬱質、粘液質、多血質、胆汁質)」と四層構造(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)による分析を基本とし、「オイリュトミー(運動を主体とする芸術的アプローチ)」や「フォルメン(有機的な動きの形状を把握するための芸術的アプローチ)」、「エポックノート(主に職業観の育成)」などを導入しているのです。

ではなぜ、上記で説明したような「相対的知識」が必要なのでしょう。

そこをしっかりお伝えしないと、不安になってしまう親御さんも出てきて当然でしょう。超越的内容が多いゆえ、カルトのようなものと受け止められてしまっては意味がありません。

それは、私たちが「いつも安心して生きていく」ためです。

不安は諸悪の元凶といえます。

神は、私たちのことを決して見捨てることはありません。どんなに間違ったことをしたとしても何度でも何度でも許してくださいます。神はこの世ではなく、あの世(霊界)の支配者なので、その御力を感じるためには、奇跡体験が重要となります。その奇跡体験を得るためには数々の試練を神の支えによって乗り越える必要があるのです。

逆に悪魔は、この世の支配者ゆえ物質的な目に見える力を持っています。この世の権力や富は悪魔が作り出したものでもあります。しかし悪魔は、決して間違いを許してはくれないので、しまいには人間を見捨ててしまうのです。調子のいい時は、たいへん頼れる存在ですが、調子を失い始めると大きな苦痛を与える恐ろしい存在に変貌するのです。

神とは「善」そのものであり、「安心」そのもののでもあります。

悪魔とは「悪」そのものであり、「不安」そのものでもあります。

そのようにきっちり二つに分けて考えると二元論的(善か悪か)になってしまいあまり良くないのですが、私は悪魔にもある意味役割があって、人はだれもが悪魔との関わりを避けては生きていけません。まず、お金が無くては生活していくことは不可能です。だからこそ「神の限りなき許し」が必要になると考えています。つまり、トータルに一元的に(何事もポジティブに)考えるべき問題だと思うのです。

ただ、神に生きている人は、どんな試練に出会っても、神と共にいるので「安心」しています。

そこが戦場であったとしても、神に生きている人は、「安心」して生きていけることでしょう。

人が信じられない人は、お金が無くなると、周りの人が誰も助けてくれないゆえ、「不安」に陥り、人をだますことを考えたり、盗みを考えたり、自暴自棄に陥って憎しみを誰かに向けるなど、犯罪に走りやすくなります。

何度裏切られようと人を恨まない人は、お金が無くなっても、普段、周りの人を愛しているゆえ、周りの人が助けてくれます。つまり、「何があっても、だいじょうぶ」なのです。

つまり、神様が何度でも何度でも許すお方ゆえ、私たちも何度でも何度でも許す者にならなくてはいけないわけです。それは、神が人間に求める願いと言えるのかもしれません。

神と共に生きる「安心」が得られると、人生にいなかる試練が待ち構えていたとしても、「何があっても、だいじょうぶ」で乗り切ることができるのです。

私は、このセンスを子どもたちに身に着けさせたいと考えているのです。こういう子どもたちが増えていくのなら、世界は必ず平和に向かっていくことでしょう。

私が「教育は平和活動(悩みながら、苦しみながら、悲しみながらも、ひたすらに愛に生き、ひたすらに許すこと)」というスローガンを掲げているのはそこにあるのです。




恵翠書院 盛岡教室

恵翠書院 滝沢教室




恵翠書院 盛岡教室 http://flock.cocolog-nifty.com/blog/cat51275045/index.html

恵翠書院 滝沢教室 http://flock.cocolog-nifty.com/blog/cat51275017/index.html




posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月13日

世界からスラムと貧困を無くすること

シュタイナー教育というと、学ぶ側にとっては難しすぎると思われがちだし、教える側は大変な思いで取得した知識につい思いあがってしまいがちである。これでは、両者にとって好ましい関係とは言えない。

神秘学に基づく教育法なので、そのほとんどが、科学的に証明されておらず仮説にすぎない。しかし、宗教と大きく異なる点は、宗教は、神の教えゆえに「絶対的知識」であるのに対し、神秘学は、間違っていれば訂正できて、新しく発見された真理があれば付け加えることができることにある。つまり、数千年掛けて、仮説が真理へと進化していくのである。それなので、現在地を見失わずに、慎重に一歩一歩積み上げていくことが大切で、「わからないことは、わからない」という謙虚さをもって進めていくべきものなのである。しかし、現実には、シュタイナーの教えをまるで宗教のように絶対視している人を見ると狂っていると言わざるを得ないのである。

シュタイナー教室を最も簡単に定義づけるのなら、「〈魂の進化〉と〈魂の退化〉を区別できる精神を養う」ことにある。この区別ができるようになれば、魂の進化をより着実に進めることができるのである。つまり、シュタイナー教育は単に頭のいい子を育てるのではなく、魂の美しい、そして強い精神力のある子に育てることにあるのだ。

<魂の進化>に生きているフィリピン人青年について紹介したいと思う。



これは、5月6日、世界を変えるテレビ(日本テレビ系列)で、フィリピン・マニラを訪れた池上彰がエフレン・ペニャフロリダ氏を取材した番組を、私はたまたま見ることができた。そこで得た感動を、私は一生忘れられないことだろう。

フィリピンには貧困層が集まる地区、いわゆるスラムがあり、一面がゴミだらけで、バラックのような建物が所狭しに立っているという場所の映像が目に入ってきた。そこでゴミをあさっている子どもたちが大勢いた。この地域では、ゴミを売って生計を立てているのである。学校に行かない子供が多く、生きるためにギャングになる子も後を絶たないという。

エフレンは、スラムの悲惨な光景を目の当たりにし、この暮らしから抜け出さなければならないと思い勉強に励んでいた。
しかし、そのことがギャング予備軍の子どもたちの目の敵になっていった。殴る蹴るの暴力や執拗なイジメに耐え忍ぶ日々が続いたのである。

エフレンは、彼らに復讐をしたいと思い、そして一つの答えに辿り着いた。

ギャングのない世界を作ればいい。

エフレンは、友人に声を掛け、教科書やノートを貰い受けるために歩き回った、そしてかき集めた教科書やのーーとをボロボロの手押し車に詰め込んでスラムへ向かったのである。このスラムを貧困から救う慈善団体DTC(ダイナミックティーンカンパニー)を設立したのは、何と彼が16歳の時である。

授業を行う時間帯は、子どもたちが親の手伝いから解放される土曜日の昼間を狙った。そこで子供たちに声を掛けて勉強を教えることにしたのである。

しかし、手ごわいのは親御さんたちで、自分の子供には学問いらないと邪魔をしてきたのである。それでもめげずにエフレンは授業を続けたのである。

エフレンはとあるアイディアが浮かんだ。問題に正解するなど頑張った子にお菓子などをあげるようにしたのである。そのことが口コミでどんどん広がっていき、参加する子供が増え続け、多い時には30人もの子供たちが集まるようになったのである。

エフレンの教え子の中からは、学校の先生になった者も出てきた。彼の復讐劇は、見事に実りを得るようになっていったのだった。

現在も手押し車の授業は続けられていて、エフレンを支えるスタッフは100名、手押し車も70台まで増えた。

活動はフィリピン国内に留まらず、ケニア、インドネシアなど、近隣諸国の貧困地域へと広がっていった。

授業を始めて12年目の2009年、その活動が認められ、アメリカCNNテレビが選出する人道的な活動家に与えられるCNNヒーローズ賞を受賞した。

池上氏の「教育とは何ですか?」の質問に対し、エフレンは、

「誰にも盗まれない財産です」

と答えていたのは印象的であった。



私は、エフレン氏と、インド・カルカッタの貧困の現場で、路上で死にゆく人々を介護するために、「神の愛の宣教会」を設立したマザー・テレサ(1910 -1997)の人生とオーバーラップしていた。マザーも貧困のカルカッタから、全世界の貧困の地へと、その慈善活動を広げていったからである。マザーは、ある時は戦争を止めるという奇跡までやってのけた、マザーたちの祈りが一時停戦をもたらし、戦争で傷ついた子供たちを救ったのである。マザーには、神が味方をしていると思った。しかも、脚色された聖人伝ではなく、私はリアルタイムの映像で、そのことを知ったのである。

世界中からスラムや貧困がなくなったら…

「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」

これは宮沢賢治の言葉であるが、どんなに金持ちに生まれ恵まれた生涯を送ろうと、この世にスラムと貧困がある限り、次の人生はスラムに生まれ変わるかもしれないのである。

しかし、この世からスラムや貧困がなくなったなら、すべての人が、人生に良い学びと魂の進化がもたらされるようになるのである。これこそが、本当の幸福といえるのではないだろうか。



「〈魂の進化〉と〈魂の退化〉を区別できる精神を養う」ことの他に、もう一つ加えて子どもたちに伝えたいことは、

「人に仕えるというプロセスを経なければ、自分のやりたいことを実現できない」

ということである。これは、私の自戒でもある。もっと人に仕えるということをやっておけば、私はこんなにも遠回りの人生を歩むことがなかったと思えたからである。人に仕えることを経た方が、多くの賛同者が得られやすく、目標実現がより近づくのである。

こういったことも、いきなり小学校の低学年の子供に話して聞かせるわけにはいかない。子どもの魂の成長(7年周期)を大切にしながら、必要なタイミングで話ができるように、子供に魂の成長を踏まえた上で進めていくのもシュタイナー教育の方法なのである。


付記(2014.5.15)

私たちの魂の完成のためには、世界からスラムと貧困を無くさなければならない。と書いたが、スラムと貧困と同じくらいに、社会悪といえるものは、極端な「裕福」ではないかと思う。極端に裕福な人がいるということは、虐げられている人が必ず存在するからである。また極端に裕福な人で、真理探究の目を持たない人は、我欲が優先し、魂が退化する方向性を持ちやすい。真理探究に目を向けないと、人はこの世に何も学べないのである。


付記(2014.5.16)

昨日、妻と話しをしていて、私はエフレン氏の言葉から重要なことを聞き逃していたようである。スラムの80%の人が学校に行かない状態では、勉強する20%の人の立場は弱い。それが逆転して、80%の人が勉強するようになると、勉強しないでいる人の立場が弱くなっていくといったニュアンスのものだ。そうなると悪質な人たちは、そこから去っていくしかなくなり、良い環境へと近づいていく。つまり、悪質な人たちが住みにくい環境に作り替えていくことにあるのだ。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月06日

人格教育の重要性について

子どもの教育で最も重要なことは、子どもとの信頼関係をいかに築くかにあると思う。

教師が上から目線で指導するのに、ついてこない子どもが多いからだ。

私は、子どもの目線で、その時その時の子供の状態を感じながら指導内容を決めるようにしている。一見して頑張れないと感じた子には、始めは添削を1点だけに絞るなどして、子どもに安心感を与え、少しずつモチベーションを上げていけるように工夫した指導を心掛けている。

教師は、手を抜かず真剣勝負で子どもたちに向かうべきである。これも、子どもたちと信頼関係を築く上で重要である。とても疲れることだが、良い結果が出てくるようになると、やりがいが出てくるものである。

私は過去に5年ほど、コンクリート2次製品の製造工場にて、精神薄弱者更生施設の男子青少年延べ16名の職場実習を担当した経験がある。

どの子も完全に自信を失っており、まずは自信を付けさせることからの指導となった。ある子には、汚水桝の材料となる短い針金を30度曲げる作業をしてもらった。しかも1000本曲げである。

初日は、合格品が数十本のみで、あとは不良品だった。私は、仕事が終わってから、その曲げた針金を元に戻して次の日に備えるようにした。翌日も、その翌日も、1000本曲げが続いた、次第にコツを掴んでいき、数本しか不良品が出なくなっていった。そこで大いに励まし、ついに1000本すべて合格品が出せるようになっていった。

こんな単純な作業でも達成感とは大きいものである、その子は自分から、溶接の仕事をしてみたいと言ってきた。そこで、丁寧に教えながらやらせてみた。見事にやり遂げ、さらには難しい溶接までこなせるようになっていった。そして、最終日までには、一般の作業員の中に混じって立派に流れ作業もこなせるまでになっていった。こんな感じで、16人に向かい合ったのである。

こんな感じで、16名全員を職場での採用へと導いていったのである。

ところが、その中の2名が、会社の金を盗んみ無免許で車で逃走するといった犯罪を犯してしまった。しかも、その2名は、教え子たちの中でも最も優秀な子たちだった。

書道塾においても、ごく最近まで、家庭の躾が全く出来ていない問題児たちに教えていた。その子たちは、塾の備品を次々と壊し、大いに暴れてくれた。躾の出来ている子に悪影響を与えないようにするため、時間調整にいつも悩まされた。しかし、その子たちとの信頼関係だけは築けたので、全員に初段まで取らせることができたのである。しかし、それが限界だった。

この子たちも、私が体調が優れずに苦しんでいた時に、休み時間のホテルごっこに誘ってくれて、肩たたきの無料券をくれるなど優しいところを見せてくれた。それゆえ、親御さんが教育に協力的になってくれたなら、この子たちに良い方向性を与えられたに違いないと思えてならないのである。

問題児の教育は、いつかはしてみたいと思っているが、それでは教える側の生活が成り立たないのである。こちらの教育は、行政的に何らかの助成をしてもらわないと、今後はできないと感じている。

自分で言うのは何だが、私は技能を教えることは得意なようで、受け持った子全員に、それなりの結果を出してきたと思う。しかし、問題は、スキル教育には成功できても、人格教育ができて来なかったことにいつも引っかかってきた。

私がシュタイナー教育に注目するようになったのは、そこにあるのだ。学校も塾も、スキル教育のみだけで、人格教育には積極的ではない。行われたとしても、対処法的なもので、その場しのぎに過ぎないのだ。どんなに良い学校、良い就職へと導けても、後に犯罪者になってしまっては意味がないのである。

シュタイナー教育は単に頭の良い子を育てることだけではないのである。

とことん考える授業(エポック授業)の他、フォルメン(絵画的アプローチ)やオイリュトミー(身体表現によるアプローチ)等を通して、「自然の法則」を体全体で捉えるセンスが習得できるのである。

これが、その子の人格を向上させるのみならず、〈人類の文化レベルを向上させる〉人材育成となるのである。


恵翠書院 盛岡教室

恵翠書院 滝沢教室
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月22日

歌の本番

一昨日の20日(日) カトリック四ツ家教会のイースターミサとイースター祝賀会に出席しました。

ミサの後、地下ホールでイースター祝賀会がありましたが、私は余興で声楽を披露しました。

歌った曲は、ベッリーニ作曲の「優雅な月よ」と、ジョルダーニ作曲の「カロ・ミオ・ベン」です。

先週の土曜日に母が自宅の台所で転んで腰の骨を折ってから、入院と介護の件で妻と走り回っていました。さらに、父の認知症の件で、病院での精密検査があったため、歌の練習をする時間を全く作ることができませんでした。

「優雅な月よ」は、思ったように歌えたような気がします。「カロ・ミオ・ベン」は、声量をアップしたもののブレスの計算をミスって、変なところでブレスをしたり、ブレスを取り忘れたりとミスを連発しましたが、のびのびと歌うことができたので、結果はそんなに悪くないと感じられました。

半分以上の人は、私の歌を楽しんでくださっていた感じでしたが、おしゃべりに花が咲いている人も多く、うるさい物音の中で歌わなくてはなりませんでした。

今回は、ピアニストが手を怪我をしたとのことで、伴奏の簡単な曲と言うことで、ピアニストから優雅な月よの楽譜をいただきました。実は、私は一度も歌ったことのない曲で、もちろん人前で歌ったこともありません。学生時代、試験等でよく耳にした曲なので、すぐにニュアンスが掴めました。ただ、楽譜通りに歌っては、この切ない歌詞が生きてこないので、曲作りに少々こだわってみたのですが、完成できぬまま母の怪我の件となってしまいました。

なので、本番は、ほぼアドリブで、伴奏から感じられるニュアンスを大切に歌いました。多くの人から祝福のお声をいただくことができました。次回は、6月7日(土曜日)盛岡芸術祭の本番です。

20日の本番の音源をアップしましたので、興味のある人は聴いてみてください。








最近、シュタイナーの学習が楽しくなりました。最近の内容では、エーテル体とアストラル体の役割と、それぞれを良い方向性へと変化させる方法について学んでいます。秘儀参入という言葉が頻繁に出てくるようになりました。神秘学を極めることとは、スピリチュアリストになることなのかもしれません。スピリチュアリストになるということは、さらに高い次元の霊界へと参入できることであり、自然の法則が求めているものだと思うのです。

前回、

だから、「どうか私に恵みをください」と熱心に祈ったとしても意味がないのである。
自然の法則には、特別扱いということは一切ないからだ。
ただひたすら法則に従っているだけなのだ。

と、書いた部分なのですが、その後に「わからない」という方向性がとても強まってしまったので、「保留」にしたいと思うのです。

自然の法則とは、そんなに単純明快なものではなく、とても複雑で、霊界の存在者たちとの交流や、それを妨げようとする悪霊の力といった問題もあるからです。

シュタイナーの読書は、単なる読書ではなく、実験的な要素もあり、それゆえ解読にとても時間が掛かります。とはいえ、その作業に生き甲斐というか、使命を感じているのです。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月23日

教育理念

「素直な心」を身に着けた子は、
 何でもできる・こなせる人になります。

「良い習慣」を多く身に着けた子は、
 強運を引き寄せられる人になります。

「自己一致」ができるようになった子は、
 何事にも動じずに輝いた人になります。






posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 起業家として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月08日

時を超えた美しさの秘密

時を超えた美しさの秘密



魅力的な唇のためには 優しい言葉を紡ぐこと

愛らしい瞳のためには 他人の素晴らしさを見つけること

スリムな体のためには 飢えた人々と食べ物を分かち合うこと

美しい髪のためには 一日に一度子供の指で梳いてもらうこと

美しい身のこなしのためには 決して一人で歩むことがないと知ること


人は物よりもはるかに多く 回復し 復活し 生きかえり

再生し 報われることが必要なのです

繰りかえし 繰りかえし報われることが


誰も決して見捨ててはなりません

救いの手が必要なときは、 自分自身の腕の端に、

その手があることを思してください


年をとれば 人は自分に二つの手があることに気付くでしょう

ひとつの手は 自分自身を助けるために

もう一つの手は 他者を助けるために

おまえの「すばらしき日々」はこれから始まる。

どうかたくさんのすばらしき日々を味わえますように。



オードリー・ヘップバーンが、亡くなる年のクリスマス・イブに
Samuel Levenson(サム・レヴェンソン)詩集 
『時の試練をへた人生の知恵』から ニ人の息子、ショーンとルカ
に読み聞かせたという詩なそうです。 

今年のイースター・ミサに向かう途中の車のラジオでこの詩を知り、
感動のあまり、車を停めてメモをしてしまいました。

世の中には、多くの矛盾があり、正しいと思っていることさえも
疑問を感じたり、失望したりもしますが、この詩の世界に生きられ
るなら、悔いのない美しい人生を送れるような気がします。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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