2012年09月26日

疑いと学び

真理を見出すために、「疑う」ことは別にどうでもよいこと。ただひたすら「学ぶ」ことなのである。

「疑い」の心が無ければ、実に広く学ぶことができるからである。とりあえず逆も調べてみるのは、「疑う」からではなく、学ぶ姿勢なのである。特に科学の世界ではその傾向が大きいかもしれない。色眼鏡で見なければ良いだけの話なのだ。

実際、仏教や神道を深く学んだからといって、キリストの教えの価値が落ちるようなことはなかった。ただ、一神教か多神教かということでは、かなり悩んだが、キリスト教の歴史背景等の学びを深めることと、学びの中で心に飛び込んできたインスピレーションによって、その悩みも軽くなっていった。

そこで最も問題となってくることは、真理とくっつけて考えられがちの所属のことではなく、人間の愚かな考え方である。ある宗教者は、他の宗教者を徹底的に批判する。自分の宗教すら、ろくに学び得ていないのにである。私は、どこの宗教に所属しようと、それは大した問題ではないような気がする。大切なことは、ただひたすら真理を求めて「学ぶ」ことであって、正しさを主張することは、決めつけでしかないのである。早とちりともいえる。一生涯、決めつける必要はないのである。

それ以上の学びは、さらに上のステージ(死後の世界)に用意されていると考えることにしている。修行の世、または試しの世といわれる、この世において、完全なる真理を得られるとは考えにくい。そうであっても、死ぬ瞬間まで真理を得る努力を続けたい。次のステージで生きてくると信じているからだ。

また悪人がいるから、人は隣人を「疑う」のである。罪とは、どこに所属するかという問題ではなく、人々の間に「疑う」気持ちを植え付けることにあると思うのだ。

訪問販売や押し売りの電話が来たりすると、これまでの経験から「騙されるのではないか」という思いが心をよぎる。本当に、相手を思う心でこの人たちが来ているとは思えないのだ。自分もこういった仕事をいくつか経験したことはあるが、あの時は、自分の心を騙し、自尊心を傷つけながらの苦痛の大きい仕事であった。また、それらの仕事は一時的なものであって今は存在しないのだ。誰かの金儲けのために利用されたに過ぎなかったのだ。その経験があるからこそ、どんなにお金にならなくても、人のために役立つ仕事をやっていきたいと思うのだろう。

悪人ではなくとも、「疑う」心を相手に抱かせることは、生きている限り免れないことではある。何もしなくても、勝手に誤解をして、私を激しく嫌うような人もいるからだ。

とはいえ、「疑う」気持ちを相手に与えるという、この罪を犯さないよう努力し、うっかり犯してしまったら悔い改めをして初心に戻って努力を続ける。これが、人間にとってまっとうな生き方ではないだろうか。

朝にジョギングをしていて、こんなことが心に飛び込んできたのである。




posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:29| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月18日

「良くなりたいか」

「良くなりたいか」
(ヨハネの福音書 5章6節)


キリストの愛を体験する初めの第一歩は、この言葉に尽きるように思います。


奇跡体験とは、「良くなりたい」という強い思いに神が力を貸してくださってこそ起こることだからです。

子供たちにお習字を教えていて、「良くなりたい」という気持ちを前に出して頑張る子は、ぐんぐん伸びるのですが、「別に、良くなりたくない」と冷めた気持ちに支配されていて頑張らない子は、良い結果が出ず、良い結果を出している子をやっかんで意地悪をしたりします。

カウンセリングにおいても、「別に、良くなりたくない」という人には何もできないのが現状です。自分自身は、良くはなる気持ちはないけれど、周りの人には良くして欲しいという、わがままな気持ちに支配されて、周りの人を困らせているのです。周りの人が自分の思ったように動いてくれないことから、満たされない思いがどんどん積もってゆき苦しんでいるのです。その苦しみから解放されたいと、カウンセラーに実に間違った助けを求めているのです。

まずは、「良くなりたい」という視点に立たなくては、何も始まりません。

カウンセリングの基本とは(子供の教育にも言えることではありますが)、「良くなりたい」という気持ちを引き出してあげることにあるのかもしれません。

盲人の目を開け、らい病者の傷を清めたキリスト様でも、「良くなりたい」と思っていない人を癒すことはできません。奇跡は起こせないのです。

次に大切なことは、目に見えないキリスト様を近くに引き寄せることにあります。キリスト様に癒されているイメージを具体的に心に描けるようになることです。多分、私欲に関することなどのことにはキリスト様は近づいてくださらないと思えることでしょう。そうなると、「あれもこれも」といった考え方はなくなっていき、願いが一つのことに定まっていくことでしょう。「このことが叶ったなら、あとは感謝をこめて、自分で頑張ってみよう」といった具合にです。

そういった祈りは、すぐに実現されるわけではありません。あなたの気持ちが本気かどうか試されることになるからです。人によっては、1年もしないで実現されるかもしれませんが、ある人は十数年待たなくてはならないのかもしれせん。

十数年待たなくてはならない場合、それは悲しむべきことではありません。それは、神からそれだけ大きなビジョンを与えられていると考えられるからです。例えば、若くして成功してしまった人は、若くして固まった日常に生きなくてはならなくなります。忙しく、収入も大きいかもしれませんが、他の可能性は閉ざされてしまっているわけです。成功するまでに時間のかかった人は、遠回りした分だけ、実に多くの経験をし、たとえお金にならなくても貴重な財を得ることになります。その中には、「真理」という財も含まれるのです。この「真理」という財を得ない人は、必ず誰にでもやってくる死を前にしたときに、実に空しい思いをしなくてはならなくなります。

そう考える時、祈りの実現に時間が掛かることには意味があると悟ることができるでしょう。

人は努力が実るとどうしても「高慢」になってしまいます。この「高慢」が世の中に苦しみが存在する一番の理由となっています。

人はプライドを持つことで、努力し、難しいことをやり遂げることができます。高いプライドを持って頑張ることは決して悪いことではありません。

しかし、人を愛するということとなると、このプライドが障害となってくるのです。高いプライドは、他者を認めることを阻んでしまうのです。

スイッチを付けたり切ったりするように、プライドは「オン」と「オフ」で切り替えることができたらと思うのです。

キリスト様は、『私に従うために自分を捨てて、自分の十字架を背負って来なさい』と聖書の中で語っています。

この捨てるべきものこそがプライドであり、プライドを捨てたことで表面化してくる自分の弱さや欠点が、自分の十字架といえるのだと思います。

プライドで完全武装すると、人は強くなったかに見えます。その鎧を脱ぎ捨てると、実に情けない状態になってしまうのです。しかし、その情けない自分と向かい合ってこそ、自分は神様の助けが必要である存在であることに気が付くのです。この状態になってこそ、キリスト様は近づいて来てくださるのです。



下の録音は、一昨日の9月16日(日)にカトリック四ツ家教会にて行われた「歳の恵みに感謝する会(敬老会)」で私が歌った様子です。





posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:26| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月16日

今朝の学び

信仰とは、大いなる知性なのである。
しかし、知性なき者に目を向けてこそ完成する知性でもある。

神は多くの場合、障害者(中でも最も小さき者)を通して、その栄光を示されるからである。つまり「神の愛」がキーワードとなる。

タロットカードや日本の神様カードは、ひとつの指針に過ぎない。「地の次元」を捉えることができても、「天の次元」を捉えることはできない。

もっとも、人々は「地の次元」に生きているのだから、そういった指針は力を持っている。

宗教も人間が描く神も「地の次元」に近いことを知るべきである。本当の神とは、宗教や人間が描く神の姿をはるかに超えているからだ。宗教が不幸な戦争や民族闘争と関わってしまうのは、宗教が「地の次元」に留まっていることを意味しており、そこには大いなる知性は存在しないのである。

しかし、宗教は、人間の心を「天の次元」に向かわせる道ではある。さまざまなルートはあるが、間違った道はない。険しい道もあるかもしれないが、必ずや真理の道へと合流するからだ。間違っていると言うのは、道のことではなく、「天の次元」に向かって歩まず、進化ではなくマンネリに生きることなのだ。

「キリストの道」を歩もうと「仏陀の道」を歩もうと、「天の次元」に向かう道なのだ。ただ、マンネリから近視眼的になっては意味がなくなってしまう。神の導きに心を開き、使命に生きてこそ、その知性は磨かれるのである。

だが、人はいつかは死ぬ存在であり、「地の次元」から離れなくてはならない日が来るのである。それゆえ、日頃から「天の次元」へ向かった心を育む必要があるのだ。信仰とは、「天の次元」であるゆえ、この世の成功とは何の関係も無く、切り離して考えなくてはならないのである。

テレビ番組を通して、または触れ合う人を通して、アカシックレコード(サタンも閲覧できる)が見ることができるなどスピリチュアルな能力に驚かせられることがあるかもしれない。しかし、それは地の次元に限りなく近い「低い次元」に過ぎない。信仰による天の次元とは、さらにさらに上の次元なのだが、スピリチュアルな驚きは、そういった「高い次元」の理解に向けてのきっかけにはなるのかもしれない。 

聖典の知識ももちろん大切だが、それだけでは単なる知識に過ぎない。その聖典のみ言葉を通して呼びかけて来る神の導きに心を向け、その導きから学ぶことのできる大いなる知性は、真理と呼ぶにふさわしい崇高さに満ち溢れているのである。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月19日

今日の収穫

私は、自宅から車で10分ほどのところのお百姓さんから畑を借りて農業をしています。

今日は(正確には昨日)、妻と母と畑に行きました。母は人の手を借りないと歩けない状態なので、、夫婦で収穫した野菜の根をハサミで切る作業を手伝ってもらいました。ジャガイモに花が咲いていました。

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今日の収穫は、サニーレタス、ほうれん草、ラディッシュです。

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サニーレタスは、葉をちぎって収穫します。昨年もそうでしたが、ちぎったところから、また葉が生えてくるので、長いこと収穫を楽しめます。毎朝、レタスのサラダが楽しめそうです。

ラディシュは、異常なほどできました。これは食べきれない量なので、知人友人恩人に、おすそ分けしようと思います。

農業の後で、自宅から車で10分ほどのところにある七滝神社の天然水を汲みにいきました。その昔、藩政時代に南部の殿様に献上していた天然水なのだとか。東京での歌の先生からのお勧めで、家族で天然水を飲むようになりました。特に、この天然水でのお茶は美味しいです。

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20リットルのポリタンク5個に汲んできているのですが、4個無くなったら汲みにくるようにしています。ポリタンクには、黒いゴミ袋を掛けて悪くならないように工夫しています。

昨年の東日本大震災の時、我が家では、停電の他、断水にもなりましたが、この天然水があったので、水で困りませんでした。さらに我が家の健康の源でもあります。感謝の水です。



そうそう、16日夜のテレビ番組で、TEPPENをやっていましたが、AKBの仁藤萌乃ちゃん(19)が、書道 初代てっぺんとなりました。今年3月、盛岡市民文化ホール展示ホールにて100歳の詩人・柴田トヨ「くじけないで」展(http://shibatatoyo-kujikenaide.jp/)が開催されましたが、その作品の中に仁藤萌乃ちゃんの「自分に」という作品がありました。

この作品を手本に、うちの書道塾の塾生全員に書いてもらいました。萌乃ちゃんの作品には、挿絵は無いのですが、塾生には挿絵も描いてもらいました。つまり、萌乃ちゃんの作品から引き出された発想力を作品にしてもらったのです。全員名作を書いたので驚きでした。しかも、子どもたちは楽しそうに書いていました。こんなに楽しそうに書くことは今まで無かったように思います。親御さんの評判もよく、中には、額に入れて飾っているご家庭もあるとのことでした。

そういうこともあったので、今年のAKB総選挙は、仁藤萌乃ちゃんのことが気になってしょうがありませんでした。第一回目の開票では圏外でしたが、最終的には55位となりました。もし、総選挙がTEPPENの後だったら、もっともっと上の結果となっていたような気がします。とても、かっこよかったです。これからも、塾を上げて応援していきたいと思います。萌乃ちゃんには、これからも書道でも活躍して欲しいと思います。


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posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月08日

書道塾の役割を考える

書道教師として心掛けていることは、お稽古の時間、一人一人のお子さんに120パーセントのエネルギーで接するということである。一切、手を抜かない。ここが大事だと思うのだ。

子ども3人から、一度に声をかけられたら、かけられた順番に、「はい、○○ちゃん」と、その子の声の色で声を返してやる。そして、「○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃんの順番に添削するから待っててね」と言った具合で指示を出す。ここを面倒ぐさがると、子どもたちは付いてこない。薄ら返事は禁物なのだ。

ご家庭での躾のできていない子への対応としては、「やだ、もう書きたくない」と言ってから、何枚書かせるかが教師の腕である。「仕事のできる大人になりたかったら、ここからが勝負だよ。でないと、嫌な仕事は投げ出す大人になっちゃうよ。嫌なときに頑張れる人が偉いんだ。」などと子どもを説得し、書かせる。字が上手い下手なんて関係なし。取り組む姿勢を大げさな位に評価する。「○○ちゃん、あなたは書きたくないと言ってから、10枚も書いたじゃない。これは凄いことだよ。偉いことなんだ。」と褒めちぎる。こういう子に限って、家庭でも、学校でも叱られてばかりで、褒められた体験が少ないのである。褒められることに快感を感じるようになると、静かにお習字に取り組めるようになっていくのだ。

ご家庭での躾のできていない子に、「級が上がるから頑張れ」は通用しない。「いいもん、級なんて上がらなくて」とか、本心とは違う言葉が返ってくる。彼らには、賞状の価値もわからない。せっかく取った賞状も、「どうせ賞状なんて捨ててしまうから、取る意味なんて無いもん」と返事が帰って来る。躾のできているご家庭なら、賞状をとったことを祝ってくれて、かつ額に入れて飾ってくれるところなのだが、この子らの親は、何もしてくれないのだ。そこで、賞状をコピーし、塾に貼っている。塾で大いに祝うようにしている。「大丈夫、あなたの賞状は、ちゃんと塾に飾ってあるから、いつまでも飾ってあげるからね」と答える。

塾の教育は、そういったご家庭や学校で手の届かない手当てをすることにあると考えている。もちろん、ご家庭での躾のできているお子さんには、「級が上がるから頑張れ」「賞が取れるように頑張れ」が通用するので、そういった激励を飛ばしている。

ご家庭での躾のできていない子は、油断すると大騒ぎして他のお子さんの指導も妨害しかねない。ある子は、他の子に酷い意地悪をすることがある。そういう時は、一旦、お稽古を中断し、子どもたちととことん話し合うようにしている。すると、意地悪した原因が浮き彫りになっていく。朝にお父さんお母さんに意味無く怒られ、学校でも先生に悪いことをしたと疑われて怒られた。だからむしゃくしゃして誰かに当たりたくなった。はじめに言っていた意地悪の理由とは全く違った理由を話し始める。そういうときは、涙を流し、声をしゃくらせて話すのだ。「私は、どうせ悪い子だから」と話すので、「悪い子ではないよ。偉い子だよ。だって、悔しい気持を正直に先生に話したじゃない。悪いことに気がつける人って一番偉いんだよ。悪いことをしても、悪いことに気付かない人が多いんだからね。」そうすると、この子は、いじめた子に「ごめんなさい」と謝まるのである。そうしたら、さらに褒めちぎってあげるのだ。これは、いじめられた子にも良い学習になるのである。子ども同士のトラブルこそ、生きた道徳教育のタイミングと考えて、そのタイミングを逃さないことも教育だと考えている。

ご家庭での躾のできている子には、書道のいろいろな作品を見せて、鑑賞法を伝授する。子どもが感動した感じが掴めたら、書きたいように書かせてみる。そういった芸術性の扉を開く教育も展開している。一人一人、指導テーマが異なるので、全力で当たらないとうまくいかない。子どもたちは、全力で当たると、良い形で答えてくれるのだ。

この姿勢は、私の歌の師匠である、奥田良三先生と高橋洋子先生から学んだことである。両先生は、レッスン時間、全力で私に指導してくださった。まったく手を抜かないレッスンである。威張ることもなく、私を見下げることもない。逃げ出したくなるほど、集中した時間なのだが、愛情がビシビシ伝わってくるので逃げ出せない。そこでのレッスンが私の心の財産となっているのである。いつも、両先生のイメージを手本に指導を心掛けている。


今日は、とあるカトリック信者さんの葬儀ミサで歌う予定である。歌を歌うとき、その時間に全力を尽くす。そこには一点の雑念も存在しない。とても清い時間なのである。私が、少なからずも声楽の演奏で評価を得てきたのは、そこにあるように思う。全力で取り組むことが、感動を生むのである。歌の技術だけではないような気がする。心が抜けていると、どんなに良い声でも伝わらないのである。今日は、亡くなった信者さんの素晴らしき人生を素晴らしき楽曲の中に凝縮するつもりで歌わせていただきたいと思っている。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 04:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月03日

スーちゃん、今年も復活

北日本大震災の被害者に心を向けたメッセージを最後に、2011年4月21日にがんで亡くなられてた、伝説のアイドルグループ、キャンディーズのスーちゃんこと田中好子さん。

2011年3月29日の映像では、呼吸困難の状態にも関わらず、被災地に心を寄せてくださり、「私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもそのときは、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の勤めと思っています。」と話され、テレビ越しに多くの人に感動を与えてくれました。

私は、昨年の第40回盛岡芸術祭声楽部門演奏会に引き続き、今年も募金箱と当日の受付係が担当でした。

今年も、私の書道塾に通う、滝沢村立鵜飼小学校の児童たちと、盛岡市立高松小学校の児童たちに、募金箱にキャンディーズを描いてもらいました。また、復興をテーマとする絵を描いてもらいました。

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そして、昨日6月2日(土)、「東日本大震災復興支援 第41回盛岡芸術祭声楽部門演奏会 新しい息吹とともに(その22)」 場所:盛岡市民文化ホール小ホール 開演:13時30分 本番の日がやってきました。

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お客様の入りは174名と少なかったものの、募金の方は40,037円とたくさん集まりました。スーちゃんこと田中好子さんには、今年も、子どもたちによる募金箱を通して天国から活躍していただきました。これは、岩手日報社を通して、被災地に届けられます。

盛岡市民文化ホール小ホールは、パイプオルガンが設置されている、クラシック専用ホールで、残響が長めなので頑張らなくても十分に声が響きます。前半の方々は、歌声もピアノ伴奏も音量が大きすぎてバランスに欠いていたのですが、第二部あたりから、落ち着いた演奏になってきたように思いました。このホールは、歌声もピアノ伴奏もセーブすることが重要なようです。

今年も会場の受付係だったので、会場で聴くことはできませんでしたが、会場と変わりないような音量でロビーのモニターから演奏が流れていたので十分楽しめました。

特に印象に残ったのは、まず1曲目は、第二部(一般の部)の先頭バッターの穂積佳穂子さん(メゾソプラノ)によるカッチーニ作曲「Amarilli」、スカルラッティ作曲「Sento nel core」でした。Sento nel coreは、イタリア歌曲の中でも入門者によって歌われることが多いので、下手な演奏のイメージしかなく、大人の雰囲気でしっかりと歌われると、今までのイメージが払拭される新鮮な演奏に感動しました。

もう一つの感動は、トリを歌われた千田敬之さん(バスバリトン)によるメンデルスゾーン作曲「オラトリオ〈エリア〉作品70より 主よ足れり」、ワーグナー作曲「歌劇〈タンホイザー〉より 夕星の歌」でした。なんとも男性的でカッコいいお声で、ものすごく二枚目なお声だと思いました。ピアノ伴奏は奥様なそうです。何で彼は盛岡にいるのだろうか。海外で活躍していてもおかしくない方だと思いました。帰りに募金箱に募金をしてくださった方も多かったので、彼の歌の効果はあったと思いました。

もし来年の盛岡芸術祭で私が歌うとすれば、第二部の2番手位がちょうどいいかな。千田敬之さんのような方に歌われてしまうと、トリなど、まだまだ全くもって無理だと思いました。歌いたい曲は、ラテン語の曲2曲。フランクの天使のパン、ビゼーの神の子羊と、高橋洋子先生の詩によるシューベルトのアヴェ・マリアの3曲はどうかなと考えているところです。

今年の秋、敬老の日のミサの後で、地下ホールにて(カトリック四ツ家教会)、美空ひばりの演目によるミニコンサートを行うオファーがあります。書道の臨書ではありませんが、こういった素晴らしい歌い手の演奏を真似て歌うことはとても勉強になるので、楽しみにしています。

書道の方では最近、王義之とチョ遂良の臨書にはまっています。石碑通りオリジナルに忠実に書くことで、こういった書聖たちの世界に引き込まれていくのです。そこでの発見が、創作活動になくてなならない材料となるのです。



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posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

世紀の天体ショーを楽しむ

今朝は家族で金環日食を楽しみました。盛岡は、雲ひとつ無い快晴で、まさに日食日和でした。

一昨日、自宅近くの文房具屋さんから、太陽が見える下敷き(147円)を2枚購入しておいたので、それを使って太陽観察をしました。1枚は父母に渡し、もう1枚は私と妻とで使いました。


6:20 右上が少し欠けはじめる。
7:10 右側が欠けた三日月となる。
7:35 薄いCの字となる。 テレビでは金環日食のベイリービーズが映し出されていた。
7:50 薄い逆Uの字となる。 盛岡では、これが限界。残念ながらリングにはならなかった。
8:30 左下が少し欠けた状態 日食が終わりに近づく。


父母が大喜び、特に父は子どものようにはしゃぎ、近所の人に太陽が見える下敷きを渡しては、感動を共有していたようです。

私と妻は、2階の寝室の窓越しに見えたので、布団に横たわって観察をしました。贅沢な観察です。

この金環日食、国内では25年ぶり、広い範囲で観測できるのは実に932年ぶりなそうです。


金環日食の次は6月6日の「金星の太陽面通過」です。太陽と地球の間に金星が入り、小さな“ほくろ”のような金星が太陽面を左から右に移動するように見えるのだそうです。同日午前7時10分ごろから午後1時48分まで観測できるとのこと。次回は105年後の2117年12月11日ということは、21世紀ではこれが最後となるのだそうです。

太陽が見える下敷きは、もう一度、楽しめそうです。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月17日

井上陽水コンサート Hello Goodbye

妻がタウン誌「マ・シェリ」の配達レディなので、その関係で、応募して当たったコンサートチケットでした。8400円のチケットなので、2枚で16800円。何とくじ運強いのだろう。

80歳になる母の誕生プレゼントにしたので、歩行がままなならない母の手を引いて、コンサート会場に入りました。

プログラムはなし、だから、演目1曲1曲がサプライズといった感じでした。

1曲目。ものすごい音響に圧倒、最後まで私の鼓膜は持つのだろうか?

2曲目「アジアの純情」。 私はPUFFYの大ファンだったこともあり、この曲は知っている。ただ、音響に圧倒され歌詞が聞き取れない…

7曲目の「コーヒールンバ」、アラブかどっかの言葉で歌っているのかと思ったら、終わりの方で日本語であることが判明。

8曲目「海に来なさい」。久保田利伸さんのカバーで知っていました。胸にジーンときました。これは名曲だ! この辺から、耳が慣れて歌詞が聞き取れるようになる。静かな曲も織り込まれていく。

私は、陽水さんを巨匠のような人と思っていましたが、が、実際は少年のような人でした。とても63歳には思えない。歌は下手ぽい感じだし(多分昨日のライブだけ)、トークも下手。ギターもそんなに上手そうではないし(多分昨日のライブだけ)、サングラスの容姿は、異様な感じさえする。今流行のおねえ言葉な感じさえする。それゆえ、お馬鹿な人にさえ感じられました。でもこの人がすごい奇跡を起こすんです。

人は優等生を求めていないんだなって気付かされました。自然体でいいんだってね。だんだん開放感が快感に変わっていきました。

リードギター、ベースギター、キーボード、ピアノ、ドラムの5人の演奏スタッフの演奏はハイレベルで、かなり酔いしれました。とくに、キーボードの独特のニュアンスは素晴らしいと思いました。音響さん、照明さんも最高の仕事をしたと思います。アンコールの照明は圧巻でした…

陽水さん、ハーモニカやギターピックを会場に投げ入れるファンサービス。どんどん、会場は、どんどんヒートアップ。

ラスト。「少年時代」。これも胸にジーンと来ました。

アンコール拍手は、5分も続いただろうか。それ以上だったかもしれない。

そして、アンコール。陽水さん、ブルーのジャケットからピンクのシャツにお色直し。

まずは、PUFFYの「渚にまつわるエトセトラ」で、立ち上がる人続出。2曲目「Happy Birthday」では、80歳になる母の誕生日プレゼントのコンサートだったゆえ、母が大喜び。

そして4曲目「夢の中へ」では、杖をついて歩いている母が立ち上がって拍手していました。胸に埋め込んでいるペースメーカーがものすごく熱くなったのだそうです。もちろん、私も立ち上がって拍手しました。3階席の中央の最前列だったので、会場の様子がよくわかるのですが、岩手県民会館2000人の観客全員総立ちで拍手しているのが見て取れました。

こんなにも会場が一体感になるなんて、奇跡としか思えませんでした。

帰りに、今日のプログラムが掲示されていました。そこに多くの人が群がって携帯で写真撮影していました。もちろん、私も撮影しました。

帰り、母が歩くのが大変でしたが、多くの人が助けてくれました。「エレベーターがこちらにあるから、一緒に行きましょう」とか、親切にエレベーターのボタンを押してくれたり。駐車場から出る際も、譲り合いがあって、嫌な思いをせずすんなり流れに乗ることができました。なんてマナーの良い客なのだろう。

コンサート前は、皆現実を引きずっていて、バラバラだったはずなのに、コンサート後は、人類皆兄弟といった優しさに包まれていました。

母は、来年はお金を払っても見に行くのだそうです。

音楽って麻薬のようなもの。人を開放感と幸福感に満たしてくれます。いや、麻薬というより、薬なのかな。陽水さんは、3度受験に失敗してお医者さんにはなれなかったけど、多くの人を元気にする歌の薬を作り続けているんだと思いました。

今日は、私の音楽活動に大きな影響を与えた日になりました。

私も陽水さんに見習って、優等生になることなんか捨てて、馬鹿をさらけ出してみようかと思いました。サングラスが、そんな勇気を与えてくれるのなら、それもありかな…

そして、もっと自由に、発明的発想を大切に、音楽を作っていこう。ハートがあれば、歌詞につじつまなんていらない。声帯のコンディションが悪くたって大丈夫。せっかくパソコンをやっているのだから、もっと電気音楽の要素も取り入れていこう。

私が63歳の時、どんな音楽創れるのかな? 何か歳を重ねるのが楽しみな気さえしてきました。

ありがとう、井上陽水さん。




YouTubeで陽水さんの音楽チェックしたら、結構、ライブのトーク面白いということを知りました。昨日のライブは、岩手は被災地ということで、気を使われていたのでしょう。ライブ終了の時、名残惜しかったのか、「お体に気をつけて」とか、思いやりの言葉をいっぱい掛けてくださいました。それに、CD音源ではお声も透明感があって素敵ですね。そうであっても、昨日のライブは最高でした。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 10:15| Comment(12) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月09日

イースター

死んでも生きる。

私たちは、元気な時には、神を感じることが出来ない。

しかし、

苦しむ時、悲しむ時、悩む時、迷っている時、不安な時、

行き先のない、やる気の持てない、喜びの持てない、

そんな時こそ、「神に支えられている」体験が持てるのだ。

墓に落ち込んでいる状態の時、

「墓に留まっていてはいけない。生きるために、墓から出てきなさい。」

そう神から呼ばれているのだ。

神を信頼して歩き出そう。神と共に生きていこう。

洗礼を受ける時、キリスト者は、

「あらゆる罪を退けます」

と誓う。

「キリストの教えと愛を信じます」

と誓う。

しかし、いつの間にか、その誓いも色あせ、心の清さを保てなくなる。

イースターは、初心に戻り、求道者に戻り、

「誓いを更新する日」でもある。

キリストだけがパン種とするため、パン種の入らない、純粋な真実なパン(ご聖体)で、イースターを祝うのです。古いパン種(邪悪な心)を取り除く意味でもある。

イースターとは清めの日なのである。



イースターミサの後、地下ホールでイースター祝賀会が行われましたが、私は、頼まれていた独唱をしました。練習が不十分で、伴奏と歌がかみ合っていないのが残念でしたが、全力で歌ったので、感動してくださった方が多かったようでした。ろくに練習もしていないのに、本番では随分攻めた歌い方をしたものです。聴き手に専門家がいなかったのが救いでした。

Ave Maria  G.Caccini

http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/263319015.html#comment

Panis Angelicus  C.Franck

http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/263319015.html#comment
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2012年04月06日

これからの時代、自分を守る最大の武器が学力となる理由

人間が悪に走りやすいのは、知性を持っているからである(=原罪)。

その点では、知性ではなく本能で生きる動物たちの方が清い存在と言える。

さらに、脳性麻痺で知性を失った人は、自分で生きる力に不足しているとはいえ、動物以上に清い存在と言えるのである。私は、こういう人たちこそ聖人と呼んでいる。神に近い人だからである。


これから話すことは、超越的とも言える内容なので、戸惑われるかもしれない。大切な内容ではあるが、混乱を起こされては何にもならないので、あまり深刻には考えないで欲しい。結論を話すなら、学力を向上させる生活が身に付いている人は、これからの時代、だいじょうぶ生きていけるという内容ではある。


アカシックレコードとは、私たち一人一人の進化の歴史が刻まれた記録である。

もちろん、今、生きている様子もすべて記録されているのだ。

そのアカシックレコードとは、低い霊界にあるので、霊能者たちはそこを見て、私たちの繰り返されてきた前世や、近未来を語ることが出来るのである。

ただ、アカシックレコードとは、死者が輪廻転生するための重要な役割を持っているものの、その低い霊界には神は存在していない。それゆえ、アカシックレコードは、サタン(悪魔)や悪霊も見ることができるのである。

キリストが輪廻転生を唱えなかったのは、その低い霊界と関わることなく、神が存在する高い霊界へと導きたいからではないだろうかと考えられる。

聖書には、この世はサタンの支配下にあると書かれてある。この世の成功者の多くは、つまりは巨富を築く者は、サタンの力あってこそと考えることもできる。

実際、闇の力が世界を支配しているのも事実である。そして私たち人間は、その力に対して全くの無力なのである。闇の力は、平和を願い行動している人々をあざ笑うかのように、世の中を悪い方へ悪い方へと動かそうとする。戦争、テロ、環境問題、経済危機、彼らは自作自演をしては、自分たちに好都合となる戦いの標的を作り出し、人々を扇動しているのだ。私たちは、彼らの手の中で転がされているに過ぎない。

闇の力は、地球支配階級と化してきている闇の側のエリートたちを頂点としたピラミッド社会を築き、闇の側のエリートたち以外は、ほぼ奴隷のような立場として生きなくてはならなくなるのである。そうなる日は、近いのである。

そのエリートたちとは、白人なので、わたしたち有色人種には分が悪い。

では、わたしたち有色人種が奴隷にならずに生きるには、どうしたらよいのだろうか。

それは、かつて古代からユダヤ人たちが生き抜いてきた知恵に学ぶべきだと思う。ユダヤ人は、キリストを裏切った民として、大変な差別を受けて生きてきた。彼らは、商業組合のギルドにも入れてもらえず、普通の人間のレベルでは、奴隷になるしか道はなかったのである。

そこで、ユダヤ人は、「ユダヤ式教育法」を作り出し、子供の教育に力を入れた。ユダヤ人は、医者になるか、貿易商や通訳といった知的分野にしか生きる道がなかったのである。

現在の日本は、すでに国自体が破綻しかかってきている。かつては頭の良い民族であったのだが、経済発展にばかり目を奪われて、他国ほどに子供の教育に力を入れてこなかったので、近年になって子供たちの学力低下が問題になってきている。つまり、未来における競争力も低下しているというしかないのだ。

もはや国を救うことは絶望的かもしれないが、子供たちを一人でも多く奴隷にしない方法を講じなくてはならない。国が破綻すると、若者たちの多くが、戦争に駆り出されたり、中国やベトナムなど安い労働力として駆り出され(ある意味、売り飛ばされる)ることだろう。

奴隷にならないためには、《闇の側のエリートたちから頼りにされるようなスキルを身に付けることにある》。ユダヤ人のように、医者になるとか、貿易商や通訳といった知的分野はもちろん、世界的ファッションデザイナーや、そのファッションを活かす美容師、ペットを育てるブリーダーでも良いと思う。ただし、並のレベルではダメなのである。

「並みの医者には治せなくても、ユダヤ人の医者なら治せるかもしれない」といった信頼感。そういった高いレベルによる信頼が、これからの日本人の若者に求められてくるのである。それゆえ、勉強好きにならなくては、これからの日本人は生きていけないのである。

土地があるのなら、奴隷にならずに自活していこうと考える人もいるかもしれない。しかし、土地はすべて闇の支配者に没収されてしまうので、そうはいかない。せいぜい、自分の家に庭があるなら、庭で野菜を栽培する程度が関の山だろう。ただ、農業のスキルがあれば、さらに先の時代に訪れる食糧難を生きる手段になるだろう。

とにかく、闇の力には一切逆らわないこと。彼らの好き勝手にさせること。批判をしても、抵抗運動を展開しても、風車に挑むドンキホーテのようなもので意味をなさない。ただ、私たちの希望は、「最後には神が勝つ」という『聖書』一番最後の記事、黙示録のシナリオであり、そう考えると何の心配もする必要はないと言えるのだ。

ここでは、サバイバル(生き抜く)ことをテーマに書いてきたが、人間は、死ぬからこそ、生きる意味があるのである。生きているからこそ、高い霊界への道が開けるのである。死者には、高い霊界への道は開けてはいない。だから生まれ変わらなくてはならないのである。良く生きて、良く死ぬことが人生のテーマなのである。だから、自殺をしてしまっては、輪廻転生する低い霊界に逆戻りするだけ、つまり人生(人間とは限らない)をやり直すだけなのである。キリストは、輪廻転生の世界に目を向けずに、まっすぐに神の世界を目指しなさいと教えているのはそこにあるのだ。

残念ながら、世界を動かしているのはキリスト教から派生した価値観であって、他の宗教は、世界を動かしているとはいえない。もちろん、その教えは素晴らしいので、学ぶ価値は十分にあるのだが、それだけでは《時代を読む》ことができない。闇の力については、『聖書』に書かれていることであって、まさに『聖書』の預言が成就しているのである。

次に生まれ変わった時は、今より進化したいと考えるのは、ナンセンスなこと。生まれた時に記憶が消されているので、カルマ(繰り返される煩悩)として前世からの癖が引き継がれ繰り返されることはあっても、その癖から良い悟りが得られるかというと、困難と言うしかないのである。生きている今しか、チャンスはないと考えるのが一番確実なことではないだろうか。


今、日本の子供たちに求められているのは、かつてのユダヤ人にも負けないような高い教育なのである。勉強嫌いな子は、これからの時代、奴隷になるということを若い親御さんによく理解して欲しいのである。

私が展開している教育は、勉強好きな子供を作っていくことにある。書道塾ではあるが、「集中力」「注意力」「持続力」を養い、さらに国語読解力ドリルや、漢検の学習も取り入れている。対話式教育を取り入れ、子供たちに「応用力」に繋がる、考える力を養っている。努力をポイント化して、カードに記録しているが、書道以外の努力もポイントにしているが、中でも読書に関するポイントは一番大きい得点としている。

読書の苦手な子は、奴隷になる子と考えているからである。私の関わる子供たちを奴隷にはしたくないと思う。「読書力」そして「調査力」。とにかく、本を読まない子には、未来は開けて来ないのである。

また、私自身も、並みの教師では奴隷になるしか道が無いのである。闇の世界の側の人々も、子供の教育では悩まされることだろう。そういう意味で、カリスマ的教育者になることが、これからの厳しい時代を生き抜いていくために必要なスキルであると考えている。

古代の頃から、何度も国を失ったユダヤ人が、何度も国を取り戻し現在に至るように、日本人も、どんなに国を失ったとしても、国を取り戻すことができるかどうかは、未来を託す子供たちに掛かっていると言っても過言ではないと思う。

勉強は楽しいもの、美味しいもの。そう考えられるのなら、だいじょうぶ生きていける。未来のことに心を押し潰されることなく、いかなる時代になろうとも、明るく、心に小さな幸せを絶やさぬよう生きていこうではありませんか。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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